はじまりここから

下手の横好きではじめたエッセイ風のブログです。平凡な日々の中で感じたことを少しだけエモく綴っています。ジャンルはニュースや音楽など。

どっちつかずのI want you な奴

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「どっちつかずのI want you」

高校時代に友人からこんなセリフを言われたことがある。

記憶ではダウンタウンの松ちゃんのギャグを真似たものだったと思う。当時は自分を含め、仲の良い友人3人で行動することが多かった。長い時間を一緒に行動していれば、何をどうするか?で揉めることがある。自分以外の2人の意見が割れると、そのときに出す僕の意見は決まって中立的なものだった。

いつもどっちつかずな態度を取る僕に対して、「お前は自分の本音を言わないズルい奴だ」という意味を込めて言われたのが、先ほどのセリフのである。どちらか1人の肩を持つの嫌で、ついついどちらにも差し障りのない意見を出し続けた結果、自分が2人から責められてしまった(笑)

そんな性格が簡単に変わることはなく、ブログでもいつも無難な意見ばかりを書いている気がする。やはり僕はズルい男なのだ。

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ワクチン証明

しかし、そんなズルい男でもこの問題に関しては無難に答えるのが難しい。渡航用パスポートとしての活用は以前から知られているが、いま話題になっているのは国内旅行やイベント、飲食店での活用についてだ。

評論家をはじめ、一般人のコメントも読んだ。すると、意見が大きく割れているように思える。感覚的には反対意見がやや多いぐらいか。試しに自分の周りで聞いてみても、他の人と僕とでは意見が違っていた。それぞれの主張をまとめるとこんなところになる。

先に反対意見から。

  • ワクチンを摂取したくてもできない人がいるのに摂取した人だけ優遇するのは差別だ。
  • ワクチンを摂取しても感染しないわけではない。気の緩みから感染を広げてしまうリスクがある。

次に賛成意見。

  • ワクチン摂取により重症化リスクを下げた人には活発な消費活動を勧めるべきだ。
  • 非常事態下における摂取者の優遇は差別ではなく区別である。

たぶん、読んでくれている人の中でも意見は割れると思う。自分の意見を表明することで必然的に誰かを残念な気持ちにさせる可能性は高い。とは言え、ここまで書いておいて、それをしないのはあまりに卑怯なので、今回はちゃんと答える。

僕はどちらかと言えば賛成派だ。"どちらかといえば"と前置くのもまた卑怯なので訂正する。賛成派だ。

(どうだろう。不快にさせたら申し訳ない。)

最初は理由もダラダラ書こうとしたけどやめておく。それは何となく求められていない気がした。強いて言えば、以前のような社会に戻るためのリハビリは早く始めた方が良いと思っていて、差別についても非人道的なものでなければ少し目をつぶって欲しいと思った。たとえ、傲慢な考え方だったとしても。

ただ、この問題には絶対的な正解がない気がする。「必ずこっちの方が正解だ」みたいな議論は間違っていて、「こっちの方が少しだけマシ」ぐらいに考えるべきだと思う。

もちろん、その程度の言い方をしていたら、相手を説得させることはできない。けど、言いたいことは、たとえ自分と違う意見だったとしても、相手のことを「なんだよ、コイツ」って憎らしく思っちゃダメなんだ。だって、絶対的な正解なんてないんだから。僕はそんな風に心に留めておきたい。

ん?なんかまた中立的な意見になってきたかな。僕は根っからのズルい奴で、どっちつかずのI want youだ。

 

おわり

書きたいことがないけど今日は書くよ

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書きたいことがないくせに、どうにかして書こうとしている自分がいる。何かを書かないと気持ちが落ち着かない。

これってヤバいよな…と冷静に自分を俯瞰しつつ、以前にある人がSNSを煙草に例えていたのを思い出す。ある人とは、インフルエンサーとは少し違うが、某SNSではちょっとした有名人である。知り合いの女性からSNSの始め方を聞かれて「やらずに済むのであれば、やめておいた方が良い」と答えたときの話を紹介していた。SNSも煙草と同じで身体に悪いと言いたいのだろう。

今、自分に出ている禁断症状は煙草のそれに似ている。誰かから貰える「いいね」のような反応は、まるでニコチンのように中毒性が高く、切れてしまうとまた次が欲しくなる。身体以上に心に堪えるから、SNSをやめておいた方が良いというアドバイスは正しいかもしれない。

✳︎

昨夜のこと。読者登録しているブロガーの記事のタイトルが『有難うございました!サヨナラです!』になっていた。思えばしばらく更新されていなかったような気はしたが、突然のお別れ宣告に慌てて記事の中身を開いた。

敢えて詳しいことは書かない。だが、やめる理由はとても残念なものだった。心ない人間から攻撃されるのはSNSでは珍しいことではない。たとえ99%がポジティブなコメントで、残りのわずが1%がネガティブなコメントだったとしても、その1%の方を大きく捉えてしまうのが人間というものだ。

スパッとやめることを選んだのは英断だと思う。自分が悪くないだけに、悩んだ末の決断だったはずだ。しかし、ネガティブなコメントがこの世からなくなることがない以上、たかがSNSで心を痛める必要はない。SNSから生まれる繋がりも貴重なものだか、リアルな生活の方が遥かに重要だ。間違わない方が良い。

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✳︎

書きたいことがないときに無理矢理書いてしまうと失敗することが多い。中身の薄いことを書けば、他人の反応が悪いのは当然だ。ここ最近は過去の失敗から学び、書きたいことがないときは書くのをなるべく我慢してきた。

でも、今日はなんか悔しい気持ちなので、書きたいことがないけど敢えて書こうと思う。SNSは毒だと言いながらやっていることが矛盾しているが、今日はそれも無視して、特に中身のない記事を投稿することにした。

✳︎

先程のSNSを煙草に例えた人は"人類にSNSは早すぎた"という話があることも紹介していた。調べてみると、政治家が悪意を持ってSNSを使えば多くの民衆を恣意的に扇動できてしまう危険性を指摘する記事であった。そして、"SNSがもたらす負の側面は許容範囲を超えており、もっと確実でストレスのない情報伝達の手段が必要なのは明らかだ"と続いていた。

重たい話であるが、決して他人事ではない。負の側面ばかり見ていても仕方ないが、負の側面の大きさはあらためて理解しておくべきであろう。特にこんなようなことを書いている自分は要注意だ。

知り合いのブロガーの皆さんには長くブログを続けて欲しいと思う。その一方で、ストレスを抱え込んでしまうぐらいであれば、そのときはたとえ残念で悔しくてもスパッとやめてもらうことを願いたい。あなたの心と身体が一番大切なのだ。

 

おわり

野良猫に餌をやるおばあさんと口論になった記憶

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今週のお題「爆発」。

つい怒りが爆破してしまい、後味の悪かった日の記憶。

犯罪者のセリフです

動物の日記や記事はブログの人気ジャンルの一つだ。僕が読者登録しているブロガーさんの中にも可愛いペットたちを紹介している人はたくさんいる。いや、"ペット"と呼ぶのは失礼で、"家族"と書いた方が正しいかもしれない。

可愛い動物たちは見ているだけで癒されてしまう。ブログに限らず、ツイッターやYouTubeでも人気が高いのも納得できる。

我が家でも犬好きの妻がいて、しばしば犬を飼いたいと言い出す。

「ねぇ、犬、飼いたいよね?」

あわよくば、子どもたちを仲間に引き入れようするから困ってしまう。

しかし、そこは心を鬼にして断固却下する。僕も実家に住んでいた頃は犬を飼っていた。犬が可愛いのは知っているし、飼いたい気持ちもわかる。でも、ダメなのだ。

ペットを飼うのに適した環境とどんな時も可愛いがってあげる覚悟が、我が家にはまだ足りない。

極端な例えになるが、日本動物愛護協会が制作したACジャパンのCM「犯罪者のセリフ」を知っているだろうか。話題になったCMなので知っている人は多いかもしれない。


www.youtube.com

可愛い飼い犬を捨てようとしている親子。小さな娘の隣で「親切な人に見つけてもらってね」と母親が涙ながらに呟く。その瞬間、「優しそうに聞こえても、これは、犯罪者のセリフです」と流れるナレーションには一瞬ドキッとしてしまう。

そして、身勝手な都合で動物を捨てる人間は身近にもいる。

猫と老婆

今の家で暮らす前は戸建ての借家に住んでいた。隣は月極の駐車場だったが、その駐車場には自転車で毎日やって来るおばあさんがいた。野良猫にエサを与えるためだ。

おかげで家の周りには野良猫がたくさん住み着いていた。鳴き声はどうと言うこともなかったのだが、問題は家の敷地にされる糞だった。たまに嘔吐したようなものまでも…。

猫の糞は匂いがキツい。特に厄介だったのが、砂利の上にされる糞。めちゃくちゃ取りにくい。糞を小石と一緒に燃えるゴミに捨てるわけにはいかないのだから。

糞をされないために悪戦苦闘する日々。水を詰めたペットボトルを並べたり、猫が嫌う忌避剤を撒いたり。それでは効果がないから、一万円を出して超音波発生機を試した。でも全然ダメ(トホホ)。

そのうち、だんだん腹が立ってくる。これはもう元を達つしかないと思って、ある日、おばあさんが来るのを待ち構えた。

「おばあさん、ここで餌をあげるのはやめてくれない」

「いやよ、可哀想じゃない」

「ここは他人の土地だよ。可愛そうなら家に連れて帰るか、余所でやってくれよ」

「頼むよ、お願いだから見逃して」

「おばあさんは餌をあげたら終わり。こっちは糞の後始末をさせられてんの!」

「じゃあ、わたしが取りにくるから」

「いやいや、赤の他人に勝手に敷地に入られるのは困る」

話はずっと平行線。結局、おばあさんはその後も僕に隠れるようにしてエサを与え続けた。しばらくして引っ越したので、今はどうなったかわからない。けれども、引っ越す間際に駐車場を管理している不動産屋が張り紙をしていた。

おばあさんの気持ちが理解できなかったわけじゃない。おばあさんの家の中はこれ以上連れて帰れないぐらいの猫で溢れ返っていたんだろう。なんとなく想像はついた。

一番悪いのはペットを捨てる人間で、おばあさんの行為が人として間違っているとは思わない。

けれども、助ける人がいれば、そこに甘える人は現れる。野良猫も去勢された猫ばかりならいいが、そんなこともない。家と家の僅かな隙間。手入れされていない草むらで子猫が生まれた。悲しい連鎖は続いていく。

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ペットを飼う条件

話を元に戻そう。"ペットを飼うのに適した環境とどんな時も可愛いがってあげる覚悟が、我が家にはまだ足りない"とはどういうことか。理由はいくつかある。

一つ目はまだ新築と呼べる家の中を傷つけられたくない。犬に家の中を少しも傷つけるなどと怒りたくはないが、絶対に怒りたくなる。傲慢な飼い主にはなりたくない。

二つ目は泊りの旅行のときにどうするのか。犬を連れて行くとなれば泊まれる宿は限られてしまう。ペットホテルに預けるにしてもお金は掛かる。家族の一員として、足枷に感じないと自信を持って言えるだろうか。

三つ目は誰が散歩に毎日連れて行くか、だ。自分の経験上、遊びたいざかりの子どもが犬を散歩に連れていくのはなかなか面倒である。飼いたいと願う妻と子どもだけで毎日散歩に連れていってあげられるだろうか。

ペットは可愛いという衝動的な気持ちだけで飼ってはいけない。しっかり可愛がってあげられる環境と覚悟を持って飼うべきだ。今の我が家にはまだそれが足りない。

そんなわけで、犬を飼うのはもう少し待とうと思う。でも、子どもたちが自立して家を出てしまったら、そのときは犬を飼ってわが子のように可愛いがってみたい。きっとそんな風に思うのだろう。

 

おわり

 

リアルで会うことのメリットが定量化できない

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今週のお題「サボる」。

我ながらダセェなぁと思うことを白状すると、ここ最近は仕事がちょくちょく暇になるときがある。仕事が暇になることをダセェと思っているわけじゃなく、仕事が暇になるとすぐに気持ちがソワソワして落ち着かなくなる小心者なところがダセェのである。

別に暇になったからと言って、給与が減るわけではないし、暇になるのは自分だけのせいではない。ただ、暇になると、まるで仕事をサボっているような後ろめたい気持ちになってしまうのだ。

忙しいときは『いいかげん暇になってくれよ』とか思うくせに、いざ暇になったら、自分以外は忙しく働いているように見えて、つい焦ってしまう。

今まで、誰かに武勇伝を語れるほど激務をこなしてきたわけではない。出世欲が強くて、人一倍働いてきたわけでもない。それでも残業しない日は無かったし、有給を取るときにはそれなりに気合いを入れる必要があった。

そうした労働環境がサラリーマンには当たり前であり、とかく仕事がデキる男というのは忙しく働くものだと思っていた。"24時間戦えますか?"猛烈に働くことが良しとされた昭和から続くサラリーマン像。学生の頃は時代錯誤だと馬鹿にしていたくせに、いつの間にかその残像を追いかけるようになっていた気がする。

いつしか働き方改革という名目で、今まで美徳されてきた長時間労働もいよいよ見直される流れができた。しかし、長年染み付いた働き方はそんな簡単に変えられはしない。DX(デジタルトランスフォーメーション)、なんじゃそりゃ。文句を言いつつ、旧態依然のままのんびり過ごしていると、突如として転機は訪れた。

コロナ禍で一気にその流れが加速し、否か応でも働き方は変わっていったのだ。ローカル企業もその例外ではなく、気付けば当たり前のようにリモートワークするようになっている。

✳︎

リモートワークが定着してくると一つの疑問に突き当たった。それは、移動時間は悪なのか?という疑問である。すなわち、リアルで会うことに価値を認められるか?いうことへの問いかけであり、コロナが収束した後もリモートワークを積極的に続けていくかの答えに繋がっていく。

ただし問題は、リアルで会うことのメリットを定量化するのが難しいという点だ。膝を突き合わせれば相手の表情がよく見えるし、会話に微妙なズレが出て、気まずい雰囲気に陥ることもない。仕事以外の会話も弾むし、リアルで会う方がコミュニケーションを取り易いのは確かだ。そうなんだけれど、果たしてそれが結果にどれほどの影響を与えるかを、わかりやすく証明する術がない。

反対にリモートのメリットを定量化するのは簡単である。移動を無くすことによって省かれる時間やお金を計算するのは簡単だからだ。この問題はリモートワークを経験している人なら誰にでも当てはまることであって、とりわけ営業職の人たちの多くが悩ましく感じている問題ではないだろうか。

リモートから受ける恩恵は大きい。通勤時間が無くなり、その分、平日に自由な時間が増えた。天気が悪い日は外に出なくて済むし、堅苦しいスーツを着る必要もない。もう「リモート最高!!」って言いたいところである。しかし、無いものねだりをするのが人間だ。世の中の大半のモノには一長一短があり、トレードオフの関係が成り立っている。

リアルで会わずに仕事ができるのはありがたいが、代わりに貴重な出張の機会が失われた。僕の顧客はほとんどが都内に集中しているので、"営業活動に出る=出張"になる。今でもゼロにはなっていないが、週一以上出掛けていた出張は月一以下までに減少した。冒頭に書いた通り、最近は暇ができるようになったというのも、思うように営業活動ができななったことに原因がある。移動に掛かっていた時間が大幅に削減されたのだ。

仕事でも出張は楽しい。しんどい時もあるが、基本は楽しい。なぜ楽しいか?理由は色々あるが、ぶっちゃけ言うと、一番の理由は適度に仕事がサボれるからである。移動中も仕事はするがずっとではない。たまにぼーっと外を眺めたり、プライベートのことを考えていたりする。堂々と個人のスマホを見るし、本を読むことだってある。

リモートワーク中は暇になるだけで気持ちがソワソワするのに、移動中は悪びれもなく、仕事をサボってしまう。「だから生産性が低い」と言われても仕方がないし、そういう意味での移動時間はやはり悪なのかもしれない。

けれども移動しないとリアルで会うことはできないし、気持ちにゆとりを与えてくれる移動時間が、ある程度までは必要悪な気もする。頭の中を整理したり、これから会う人のことを考えたり、そんなゆとりがリモートでは生まれにくい。

出張に行けないのはコロナの感染防止に寄るところも大きいが、収束後に以前のレベルに戻ることはないだろう。半分か、それ以下かもしれない。どのぐらいがベストなバランスなのだろうか。リアルで会うことのメリットが定量化できれば良いのになぁと思う。

 

おわり

水島新司の名作「大甲子園」は不滅である

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まったくゲームをしない大人になった僕も、子どもの頃は紛れもなくゲーム少年だった。ファミコン世代に生まれただけあって、とりわけファミコンに費やしてきた時間は長く、その分印象に残っているソフトも多い。

いざ記事を書き始めようとしたものの、あっという間にソフトのタイトルで頭の中がいっぱいになり、思わず文字を打つ手が止まってしまった。

ひとつひとつ思い出を紐解くことも考えたが、それでは読む側は退屈だろうし、書く側の自分もしんどい。何とか一本に絞り込もうとあーだこーだ迷った結果、今まさに旬の話題で選ぶことに決めた。

夏の風物詩。と言えば甲子園。野球漫画の巨匠で、昨年引退を発表した水島新司先生の代表作『大甲子園』を知っているだろうか。

水島先生の作品の中では『ドカベン』が最も名前が知られているが、ファミコンのソフトになったのはドカベンではなく、その続編にあたる大甲子園なのだ。今回は昭和のオヤジたちなら泣いて喜ぶ名作に触れてみる。

漫画の大甲子園

ゲームの紹介の前にまずは漫画・大甲子園の物語設定について説明したい。なぜなら大甲子園の物語設定は少し特殊なのだ。

『ドカベン』の続編で、主人公・山田太郎の高校3年の夏を描いた物語である。それまで、『男どアホウ甲子園』『ドカベン』『一球さん』『球道くん』『野球狂の詩』などの野球漫画、特に高校野球漫画を数多く描いてきた水島新司が、それらの漫画の登場人物たちを一同に介して一つの漫画の中で試合をさせてみたいと考え、更に過去作だけでなく新しい野球漫画の主人公チームも加えるために、『ドカベン』終了後に『週刊少年チャンピオン』にて『ダントツ』を連載、その主人公チーム「光高校」が甲子園出場を決めたところで同作の連載が終了、翌週より本作の連載開始となった。

Wikipedia 

大甲子園は、ドカベンをはじめ水島先生の描いた作品の中からそれぞれの主人公たちを集めて甲子園の舞台で戦わせる設定になっている。つまり、作品の垣根を越えて、夢の対戦を実現させた物語なのだ。

わかりやすいように他の漫画でも例えてみようとしたが、案外思いつかない。高校野球という一つのジャンルに特化して何本も作品を描き続けてきた水島先生だから成せる技なのだ。

実在したチームで例えるなら、桑田と清原を擁するPL学園と平成の怪物・松坂がいた横浜高校を戦わせてみるような話である。(例えが古いかな)

当時小学生だった僕はリアルタイムに作品を読んでいたわけではないし、全ての作品を読んでいたわけではないが、それでも胸アツになるぐらいプレミアムな設定だった。

ファミコンの大甲子園

ソフトの正しい名前は『水島新司の大甲子園』。ジャンルとしてはシュミレーションゲームになるのだが、発売元は意外にもアーケードゲームで有名なカプコン。よくよく考えてみると、その時はまだ『ストリートファイター』を発売する前のカプコンだった。

ゲームの内容は『ドカベン』と『大甲子園』の二つの物語を組み合わせたもので、原作をベースにしながら明訓高校で物語を進めていく。

試合ごとに1〜9回まで通しで戦うのではなく、用意されたシナリオに沿って試合の一部を戦うシステムになっていたはずだ。

守りのときはピッチャーを操作し、球種やコース、球の速度を選択。攻めるときは反対にピッチャーが投げる球を予測し、ミートゾーン(球のコース)とスイング速度(球の速度)を選択する。

キャラクターの能力に応じて投げられる球種が違ったり、ミートできるゾーンの広さが違ったりした。記憶では、必殺技を使うと画面が切り替わり、大きなアニメーションが流れた気もする。(「カキーン!!」みたいな)

まぁ、プレイをしたことがない人にいくら文字で説明しても伝わり切るわけもないので、こちらの動画を見てもらった方が何倍もわかりやすかったりする。


www.youtube.com

いや〜YouTube って何でもあるね。

今週のお題は「やり込んだゲーム」

昔の思い出を美化しているだけかもしれないが、僕にとってはファミコンぐらいがゲームとして、ちょうど遊びやすかったと思う。

今回チャレンジした今週のお題は「やり込んだゲーム」が本来のテーマなんだけど、ゲーム機が進化するに連れ、内容がより高度化し、手が混むようになっていくと、徐々に僕はついていけなくなってしまった。難しいというよりはクリアまでに掛かる時間が長過ぎて、途中で飽きるようになってしまったのである。

ファミコンはバグが多かったり、機能的に不便なところも多かったりしたけど、やり込み過ぎないでいられるぐらいのレベル感が僕には合っていたのかもしれない。

さて、昨日行われた2021年の甲子園決勝は智弁和歌山が21年ぶり3度目の優勝を果たした。甲子園を見て思い出すゲームはやはり大甲子園なのである。

久しぶりにまた遊んでみたい。ちなみに大甲子園の決勝はどんな対戦カードだったか覚えているだろうか。1チームはもちろん明訓高校。もう1チームは・・・。

答えてしまうのは野暮だからやめておく。気になる方はぜひ読み直すか、自分で調べて昔を懐かしんでくれたら嬉しい。

 

おわり

 

 

 

 

 

安くておいしい食事を食べられる貧しいニッポン

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今回はめずらしく経済のことを書いてみたい。いや、" めずらしく"ではなく、"はじめて"が、きっと正しい。

なぜなら最近、日本のデフレに関する記事ばかりが妙に目に付く。 無意識に自分で記事を選んでいるだけかもしれないが、 もしかしたら同じような人がいるかもしれない。だから、試しに書いてみよう。

と、言っても識者ではない素人が書くことなので、多少の間違いなら大目に見て欲しい。

✳︎

あなたは、日本の飲食店がなぜこんなにも安くておいしいのか、その理由を考えたことがあるだろうか?

そんな問い掛けをしていたのが、こちらの記事。

note.com

メディアは安く売れる理由は報じずに、激安グルメを特集したがる。それを見て、安くておいしいことが当たり前かのように手放しで喜ぶ消費者。和食店の女将である筆者は、安さを疑う人がもっと増えて欲しいと訴える。

飲食店ではないが、同じ食品の仕事に携わる者として、共感せずにはいられなかった。記事に書かれていたこの辺りなんかはまさにその通り!と思ってしまう。

かといって、自分を犠牲にすることが美しい、みたいな見せ方も同業者としては非常に困ります。

これは増税や材料費が高騰したりするとよく出てくるパターンです。店主の涙ぐましい努力によって価格を据え置き〜みたいな文脈で語られます。

涙ぐましい努力をしなければならない社会の現状への問題提起ではなく、努力の美化という形です。

こうしたコンテンツを目にした消費者は、ビール一杯、周辺のお店より10円でも高いと文句を言うし、材料の相次ぐ高騰に耐えかねて値上げすると非難する。

心当たりならある。

創業ウン十年の老舗店で主人の口から、創業当時と価格が変わっていないこと、お客さんのために今後も価格を変えるつもりがないこと、が語られるパターン。テレビはお客さんのために身を削る姿勢を必要以上に美しく映したがる。

人の店の考え方に意見すべきでないことはわかっている。けれども、その美談に他の店が足を引っ張られてしまうのだとしたら、やはり黙ってはいられない。

値上げをせず、利益が先細っていく店が、はたして本当に良いサービスを提供し続けることができるのだろうか?

お金が掛かるのは食材だけではない。建物や設備を維持していくためにもお金は要る。電気や、ガスや、水道代だって、値上がりがある。

良いサービスを続けるためにも本来はちゃんと一定以上の利益を得ることが必要なはずである。

記事に書かれていたように、中小の店の多くは時間や労力、従業員の給料など、色んなものを犠牲にして安い価格を維持している。犠牲がないと成り立たないのだ。

利益率の高い業界なら良いのだが、飲食店の業界は総じて利益率が低い。営業利益率は平均で5%程度と聞く。

今後、QR決済に約2%の手数料が有料化されるようになれば、利益は半分ほどになってしまう。これが、コロナ禍でただでさえ経営が厳しくなっている中小の飲食店が置かれている状況だ。

記事を読んだ後にこのツイッターがバズっているのを見てあらためて考えさせられる。

こんなにも安くておいしいものが食べられる日本は豊かな国なのか、それとも、こんなにも安いサービスが生まれてしまうぐらい日本は貧しい国になったのか?

✳︎

元は日本のポップミュージシャンで現在はアメリカでジャズピアニストの大江千里さんが語る記事も読んだ。

news.yahoo.co.jp

大江さんは記事の中で物価の安さの裏側にある日本の賃金の低さを指摘している。先に紹介した記事で、安い理由には従業員の給料などを犠牲にしているという指摘と同じものだ。

日本の物価や賃金は世界の主要国と比較して相対的に下がり続けている。もちろん厳しい価格競争の中で生まれた安くて品質の高いモノやサービスに、いち消費者として恩恵を受けていることは事実だ。

しかし、それに満足していて本当に良いのか?

競争に勝ち残れるのは一握りの企業である。モノが売れないから、価格を下げ、企業の業績は悪くなり、従業員の給料が安くなる。すると消費者の購買力が落ち、余計にモノは売れなくなる。これが日本の陥っているデフレスパイラルだ。

このままでは日本人は世界から良いモノを買えなくばかりか、いつしか海外旅行に行けなくなる日がくるかもしれない。

誰かの記事の紹介ばかりで、つい"他人の褌で相撲を取る"恰好になってしまったが、日本人はいいかげん『値上げイコール悪』というマインドを変えなくてはならない。

しかし、人間のマインドは簡単に変わらない。ずっと前からわかっていることなのに変わってこなかった。だからこそ、今回紹介したような記事がきっかけで、少しでも変わるきっかけになってくれれば良いと思っている 。自分も含めて。

あなたは、日本の飲食店がなぜこんなにも安くておいしいのか、その理由を考えたことがありますか?

 

おわり

苗場の地(フジロック)が揺れている

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音楽には人を救う力がある。

いい歳したおっさんが口にするには青臭くて恥ずかしいのだけど、僕は本気でそう思っている。

救いを求めるのは、なにも死ぬほど辛いときばかりではない。

心にちょっとした傷を負ってしまったとき。嫌なことがあってむしゃくしゃしたとき。理不尽な現実に嫌気がさしたとき。自分ではどうしようもならない壁にぶち当たったとき。

怒りや不満、不安といった負の感情を、時に音楽は昇華してくれる。多くの人が一度はそんな経験を過ごしているのではないだろうか。

とりわけフェスはそれを実現させるための重要な場所であり、決して失われることがあってはいけない場所だと思っている。

事実、震災で甚大なダメージを受けた日本を元気にするために開催されたフェスもあった。

だが今、そのフェスの存在が揺らいで見える。

✳︎

今日、予約していた子どもの陶芸体験が急遽中止になった。新型コロナウィルスの感染に配慮して決まったことだ。仕方がない。

もともとはプールやアクティビティーを備えた大型の屋外施設へ行く予定だった。当然だが、昨年から子供たちを満足に外で遊ばせることができずにいる。

今回は上の子の誕生日祝いを兼ねて、長く外で遊べる場所へ連れて行ってあげようと、ずいぶん前から計画していた。

しかし、1ヶ月ほど前から国内の感染状況はデルタ株の流行により急変。僕の住んでいる地域も最初はまん防が適用となり、間も無くして緊急事態宣言が発令された。やむを得ず計画は中止。代わりに見つけたささやかな予定が陶芸体験だった。

今思うことは「どこに行けばいいのだろう」だけである。家で過ごすべきだ、という意見も聞こえてきそうだが、リスクが低いと思える場所にはなるべく連れ出してあげたい。正しい、正しくないではなく、自分なりの答えだ。

そうは言っても心はモヤモヤしている。どこまでが許されて、どこから先が駄目なのか、状況に合わせて判断をする必要がある。しばらくこのモヤモヤからは解放されることがないのだろう。

けれども、僕のものなど比較にならないほどのモヤモヤが苗場の上空には漂っている。

✳︎

新潟県の苗場スキー場で8月20日から開催されている「フジロック」。日本を代表する歴史あるロックフェスだ。

実はフジロックにはまだ行ったことがないのだが、98年のミッシェルガンエレファントの伝説のステージを動画で見てから、死ぬ前には絶対に行くと心に決めている。


www.youtube.com

そのフジロックが、開催の真っ最中にも関わらず、開催の是非を問われている。まさかこんな風に世間から厳しい目線を向けられるなんて2年前には想像もできなかった。

きっと反対意見の方が多いだろう。今朝も反対意見を煽ること以外に目的がないような記事がヤフーニュースの見出しに上がっていた。明日以降、更に厳しい批判を受ける可能性もある。

ただ、それでも僕は反対をできない。理性ではなく、感情的に反対ができない。

批判されてもおかしくないし、エゴであることは認める。でも、フェスの楽しさを教えてくれたアーティストや関係者を悪者にはできないのだ。

アジカンのボーカル後藤正文さんが書いたnote。

note.com

読めば一人のアーティストの本音が見えてくる。

同時に葛藤や重圧もどんよりと心の奥底にはずっとある。仲間たちともいろいろな話をした。どうしたらいいのか。簡単にキャンセルだと言える勇気も、あとは知らないと逃げ出す無責任さも持ち合わせていない。もちろん、出演することだけが責任というわけでもない。

note.com

これまで慎重な姿勢を取ってきた後藤さんが、言葉を丁寧に選びながら綴っている印象を受ける。みんな迷いながら答えを出しているのだ。

一方で、この時期にフェスをやるということが、他の人の人生、生命そのものを危険に晒すかもしれないというのは、もっともなことだと思う。怒っている人がいるのも、その人の切実さや誠実さの表れだと感じる。そういうひとたちを否定するために文章を書いているわけではないということは、ちゃんと記しておきたい。

人にはそれぞれに守ろうとするものがある。立場が変われば、守るべきものは変わる。

開催を決行する人、開催を反対する人。それぞれが正論であり、どちらか一方だけを正しいと言い切ることはできない。

そして、今後もこうした正解なき問題に誰かが白黒をつけるのだとすれば、それはやはり政治家の務めなのだろう。政治に答えを託すことが良策かはわからないが、今のような状況において解決する力を持つのは政治家でしかないのだ。

サイゼリヤの社長が「怒るより選挙に行こう」と発言していた記事を読んだ。今の政治に問題があるとすれば、それは選挙を放棄している国民にも責任がある。だから、選挙には行くべきだと。

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とにかく今はフジロックでクラスターが発生していないことを祈る。それぐらいしかできない。

音楽には人を救う力がある。それを叶えるための場所が悪者にされてしまうのはあまりに悲しすぎる。

たとえ身勝手な願いだとしても、それしか僕にはできないのだ。

 

おわり