受験に2度失敗した僕が学びについて思うこと
昨日は家で仕事をした。ここ最近は週2回ぐらいの在宅勤務が当たり前になってきている。
ただ、昨日がいつもと違ったのはパソコン越しに息子が勉強していたことだ。
僕は家で仕事をするときはダイニングテーブルですることが多い。
自分の書斎がない僕にとって、広くて椅子もあるダイニングテーブルはパソコンや書類を広げるのに一番使いやすい。
その息子は昼に簡単なオムライスを作ってくれた。
小2のくせに料理に興味があるらしく、ときどき妻がごはんを作るのを手伝っている。
まったく料理をしない男を夫に持ったせいか、そんな息子を妻はよく褒めている。
殻を割り卵をボウルの中に落とす。生卵を溶くときは箸を3本使うと良いらしい。
1枚目をフライパンからひっくり返すのは失敗した。皿の上にはケチャップライスのはみ出したオムライスがのっかる。
あまりに悲しそうな顔をしたので、それは僕が食べる分にした。
気を取り直して2枚目。今度は成功。
1回目の失敗がまるで無かったかのように得意げな顔をしていた。
ちなみに息子が朝から家にいるのは春休みに入ったからだ。本来なら学童保育に行くはずだったが、退屈過ぎるという理由で行くのを拒んだ。
この春休みか終わると息子は小学3年になる。
息子は進級だが、新たに高校や大学に通い始める学生もいる。
そして、彼らの中には自分が一番に志望した学校に行けなかった学生もいるだろう。
#今年、学んでみたいことは? × 受験
僕は学生のときに2度大きな受験に失敗している。
1度目は高校受験で2度目は大学受験。
どちらも第一志望から落ちてしまった。
滑り止めの学校には受かっていたので、浪人はしていない。
それでも3年間の学校生活で唯一泣いたのは受験に失敗したときだけで、涙が出るほど悲しかった。
なぜそれほどまでに悲しかったのか?
今思えば泣く必要などなかった。
決して強がりで言っているわけではない。
滑り止めで行った学校が思ったより楽しかったからでもない。
よくよく考えてみると僕には第一志望の学校にどうしても行かなくてはならない理由がなかった。
その学校で何かしたいことがあったわけではなく、その学校でしか学べないことなどなかった。
僕が志望校を決めたの理由は単純だ。
自分の頭で入れそうな1番偏差値の高い学校を選んだ。
高校のときも大学のときも同じ。
ギリギリを狙い過ぎた結果、本番に弱い僕は受験戦争に敗れた。
少しでも偏差値の高い高校に行って、少しでも偏差値の高い大学に入り、少しでも優良な企業に就職する。
ぼんやりしたつまらない理由。
他の理由も強いて挙げれば、親の望んだ学校とか、学費の安い公立の学校とか、都会にある学校だとか。
どれも大した理由じゃない。
自分の人生だ。親の人生ではない。
親に経済的な負担をかけるのが嫌なら遊ぶ代わりにバイトして仕送りをやめてもらえばいい。
けれどもそれはしなかった。その程度だ。
大人になり、学生のうちにもっとたくさんのことを学んでおけば良かったと思う。
奇しくも、今週のお題が「あなたの今年、学びたいことは何ですか?」であるように、大人になって自由に使える時間が少なくなると、「あれも学びたい、これも学びたい」と学びに貪欲になる。
僕は学校に行って何を学ぶかよりも、その学校に入ることしか考えていなかった。
今年、希望が叶わず涙した学生の中にも、僕のように目的が逆転し、入学することしか考えていなかった学生もいるだろう。
もちろんちゃんとした目的を持っている学生もいるだろうけど、日本の教育なんて、まだそんなもんじゃないかと勝手に思っている。
そんな彼らには言ってあげたい。
第一志望校じゃなきゃダメだった理由は本当にあったのか?
それよりも今から行く学校で何を学ぶかを真剣に考える方が大事なのではないかと。
だから、必要以上に悲しむことはない。
息子の受験はもうしばらく先だが、自分の得た教訓から息子には何を学びたいかで学校を選んで欲しいと思う。
特に今の時代は情報が溢れていて、スマホさえあれば大抵のことは学ぶことができる。
極端な話、やろうと思えば学校に行かなくても、ある程度の知識や教養は見つけることができるだろう。
僕らの時代では決してできなかったことだ。
まったく環境が変わってきているのに、僕の時代と同じ価値観で学校を選ぶようなことは絶対にしてほしくない。
僕が学校で学びたかったのは何だろうか?
学んで良かったことは何だったのだろうか?
息子に少しだけでもヒントを与えられるよう、受験までに考えておこうと思う。
*
ちなみに今日僕がこんなことを書いたのは、昨日、日テレで放送していた『Premium Music 2021』を見たからだ。
アンジェラ・アキとスピッツのせい。
『手紙~拝啓 十五の君へ~』
『空も飛べるはず』
ドラマ「白線流し」を思い出すな~。
終わり