はじまりここから

下手の横好きではじめたエッセイ風のブログです。平凡な日々の中で感じたことを少しだけエモく綴っています。ジャンルはニュースや音楽など。

親ガチャを真剣に語るのはナンセンスだ

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もう秋だというのに炎天下で行われた娘の運動会。照りつける日差しでうなじのあたりが焼けるように痛い。だけど、僕の心は満たされていた。娘は足が速い。徒競走を一位でぶっちぎり、代表リレーでも快走を見せてくれた。暑いのを我慢してカメラを回した甲斐がある。

僕に似て足が遅い息子と、妻に似て足が速い娘。運動能力においては娘の方が息子よりも引きが強かったということだろう。

熱血漢な父親

代表リレーを撮影している間、隣に座っていた父兄が終始大声を上げ応援していた。少しうるさいぐらいだったが、自分の子ども以外もちゃんと応援する姿勢には感心した。バトンを落としてしまった子、途中で転んでしまった子、大差がついていても一生懸命走る子。「大丈夫、大丈夫!まだ、追いつけるよ。ガンバレ!」僕にはできない芸当だ。多少暑苦しくても、こんな熱血漢を父親に持つ子どもは幸せなんじゃないだろうか。深くは考えずにそう思った。

娘が通う幼稚園は教育に力を入れていることで知られている。わざわざ遠くから通ってくる園児は少なくない。だからなのか、富裕層の家庭も多く、園に行くと高級車をよく見かける。残念ながら僕は違うのだけど。父親のイベント参加率もたぶん平均よりは高い。家庭が裕福であることと、教育熱心なことが、子どもの幸せに直結するほど単純でないことは分かっている。しかし、客観的に見て、この幼稚園に通う子どもたちはたぶん恵まれている。彼ら彼女らは引きが強かったということだろうか。

裸足の女の子

運動会を終え、家に帰ると時計の針は12時を回っていた。急いで着替えだけ済ませ、向かったのは自宅から少し離れたファミレス。娘と一緒にドリンクバーの列に並んでいると、体操服を着た女の子が僕らの前にフラフラ割り込んできた。運動会の帰りのようである。制止して本来の順番に並ばせたかったが、そうしようと思ってやめた。注意するのが可哀想だったからではなく、女の子が幼すぎて注意を理解できないと感じたからだ。

問題は順番を守れない女の子にあるのではない。順番を守らせるはずの親が側にいないことにある。しかも、足下を見ると何故か裸足で靴を履いていない。席から脱いだまま歩いてきたのだろう。順番を譲ると女の子はたどたどしくコップをドリンクバーの機械にセットした。しかし、タッチパネルの操作が分からない。3歳ぐらいだろうから、わからなくて当然だ。欲しい飲み物を聞いて代わりに操作をしてあげる。目的の飲み物を手に入れると、女の子は黙って席へと戻っていった。

実はその女の子の親がどこにいるかは察しがついていた。ドリンクバーへ向かう途中、ソファ席の上に足を乗っけた若い父親が視界に入り、行儀の悪さが気になったが目線を合わさずにやり過ごした。席に戻りながら確認すると予想はやはり的中した。

別に、子どもを少し放置したぐらいでその親を非難しようとは思わない。僕がしたように他の大人が手伝ってあげれば済む話だ。案外、何でもかんでも親が手を出すよりは自立心が育まれるかもしれない。その女の子を可哀想と見るのは行き過ぎた考えだろう。ただ、さっきまで見ていた幼稚園の親たちと比較すると、ギャップがあるのは明らかだった。良い悪いは別として、子どもたちはどちらのタイプの親を引きたいと望むものなのだろうか。

「親ガチャ」の記事に抱く違和感

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少し前に「親ガチャ」という言葉が流行った。"自分の親は選べない"、"どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまう"という意味で使われる言葉らしい。プロアマ問わず、多くの人が記事を書いていて、そのいくつかを読んだ。

自分の境遇を親のせいにするのはけしからんとか、いやいやそうじゃなくて子どものときの家庭環境で人生は決まってしまうのだとか。

記事を書く人によって主張は違うし、どちらの主張が正しいかで議論になることもある。けれども、それは前提条件にしている子どもの境遇レベルが違うだけで、話が噛み合っていない。金持ちの家に生まれたかったと贅沢を嘆く子どもには「甘えんな!」で十分でも、ネグレクトなどの虐待を受けてきた子どもに「親のせいにするな!」などと言えるわけがないだろう。結局は、運(ガチャ)を前向きに受け入れようとか、同情するほど運に恵まれなかった人たちには手を差し伸べようとか、当たり前の結論しか出てこない気がする。

そもそも僕は「親ガチャ」という言葉を使って人生観や社会問題を真面目に語ろうとする記事に違和感を抱いてしまう。

なぜなら、この言葉は所詮、流行りの「ガチャ」になぞらえただけのスラングでしかない。単に例えが上手かっただけの話だ。言い出したのは本当に困っている子どもたちでもなければ、その困っている子どもたちを真剣に救いたいと考えている大人たちでもない。この言葉を使って真面目な話をするのは、どこかズレてしまっていないだろうか。

世間への問題提起に繋がるという意見もあるかもしれない。しかし、こんな軽い言葉に昔から根付く深い問題を変えるほどの力があるとは、僕には到底思えない。第三者的な立場の大人が自分の考えを主張したいだけで、問題を解決してくれるような期待感が記事の中に感じられないのである。

「親ガチャ」について触れた記事を否定したいのではない。この言葉について真面目に議論する価値があるのかと問いたい。小ネタ程度に会話に出すぐらいでちょうどいいだろう。あくまで僕個人の見解だ。こんな風に書いている僕が一番ズレているのかもしれない。それならそれで構わない。でも、「親ガチャ」の言葉を聞くと、そんな風に思ってしまうのである。

 

おわり

 

P.S  僕の読者さんの中にも「親ガチャ」について記事を書いた方が何人かいらっしゃっいましたが、それらの記事は僕が疑問を投げ掛けたいような記事ではなく、決してそれらを否定するつもりは毛頭ないことを念のため宣言しておきます。悪しからず。