前回、幼稚園に通う娘が友達の一人から意地悪されている話を投稿したところ、たくさんのコメントをいただきました。どのコメントも長文ばかりであることに驚きつつ、貴重な時間を割いてくださったことに深い感謝を覚えます。ありがとうございました。
コメントが多かったのは、決して僕の書いた記事が良質だったからではありません。世の中のほとんどの人が人間関係に少なからず悩みやストレスを抱えているわけで、人間関係をテーマとした記事は、それだけ反響を得やすいものなのだとあらためて感じます。
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実は先日もそんな風に思うことがありました。きっかけはテレビドラマで見た、いじめをめぐるやり取りです。
テレビドラマとは、月9『ミステリと言う勿れ』の第2話のことで、主人公の久能整(くのうととのう)がいじめについて持論を展開するシーンがありました。
「あの頃は今みたいに誰も逃げていいよと言ってくれなかった、学校も休みたかった、本当はずっと逃げたかったのに」
事件の容疑者の一人から、いじめられていた過去の告白を受けて、久能が語った話の内容が、実に深イイものだったのです。
どうしていじめられている方が逃げなくてはいけないのでしょうか。
欧米の一部では、いじめている方を病んでいると判断するそうです。いじめなきゃいられないほど病んでいるから隔離して、カウンセリングして癒す。
でも日本は逆で、いじめられている子に逃げ場を作って何とかしようとする。でも、逃げると学校にも行けなくなって損ばかりする。
同じようにDVも被害者を逃がすけど、病んでいたり、迷惑だったり、恥ずかしくて問題があるのは加害者側のはず。
例えば、歩いていていきなり殴られたら誰かに話をするように、先生や親にいじめられていること、加害者が病んでいることを、みんなが簡単に言えるようになればいいと思う。
久能はいつも人の心理や物事の本質を言い当ててきますが、この話は特に胸に刺さりました。
僕がそう感じたということは、同じように感じた人が世の中にたくさんいるわけで、放送後のSNS上には共感の声が溢れていたようです。
(余談ですが、第1話については以前にレビューも書いております)
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今さら蒸し返すつもりはありませんが、昨年炎上した某ミュージシャンの過去のいじめ問題もこれに当てはまる事例なのかもしれません。
極めて悪質なイジメに加えて、それを平然と雑誌記者に語ってしまう異常さはある意味病んでいるとし思えません。もっと早くに彼をカウセリングしていれば、彼自身が将来、特大ブーメランをくらうことはなかったように思えます。
では、どうすれば久能が語るような社会が実現できるのでしょうか。おそらく特効薬的なものはなくて、何か一つを変えれば済むような話ではないはずです。
それでも、強いてあげるとすれば、やはり教育ではないでしょうか。いじめを善悪だけで解釈する道徳的なアプローチではなく、いじめをするのは心の病気という共通認識のもと、心理学的かつ医学的なアプローチが本来は求められているのかもしれません。
いじめについて家庭内で教えてあげることも大切ですが、教育の場である学校で「なぜ、いじめは起きるのか」「もし、いじめが起きたらどう対処すべきか」をもっとアカデミックに教育してく必要性を感じます。
取り止めのない話になってしまいましたが、弱きを守れる社会であって欲しいと強く願います。そのためにも、今より一歩踏み込んだいじめの教育をこれからの子どもたちには施していくべきではないでしょうか。
おわり