はじまりここから

下手の横好きではじめたエッセイ風のブログです。平凡な日々の中で感じたことを少しだけエモく綴っています。ジャンルはニュースや音楽など。

嬉しいのに素直に受け取りにくいのさ

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少しずつ。少しずつ、外での行動が自由になってきた。遠く離れた人に会いに行ったり、家族以外の人と食事をしたり。社会は少しずつ失われた平常を取り戻そうとしている。

他方、心情としては、いつまた閉塞した世界に戻ってしまうかわからないと、慌てて予定を入れている人も多いはずだ。

僕もその一人。最近は以前のように出張も増えてきた。来週は数年ぶりに高校時代の友人とお酒を飲みに行く。外でゆっくりお酒を楽しむのはいつ以来だろう。

そんな中において感じたことが一つある。コロナ禍で失われていたのは何も親しい人たちとの交流だけではない。名前も顔も知らない人たちとの交錯もまた同じ。バスや電車で通勤している人と違い、車での通勤は基本的に他人との接触がない。どこかで店にでも立ち寄らない限り、会社で限られた人たちとだけ会って1日が終わる。地方に住んでいれば人混みを避けることなど案外難しくなかった。

今はそれが好まれる状況であるが、他人と関わる機会も一定以上には保っていたい。良くも悪くも、知らない人から受ける刺激も大切だと思っている。

バスとおばあさん

先日、普段は行かない本社での打ち合わせの帰りにバスに乗ったときのこと。目的の停留所に着き、席を立とうとした瞬間、杖をついたおばあさんが後ろの方から歩いてくるのが見えた。

おばあさんの前に入り込もうと思ったが、進路を塞いでしまうのもはばかられる。体の向きだけ通路に向けたまま、おばあさんが通り過ぎるのを待つことにした。

おばあさんは僕が待っていることに気付いた様子で、前を通り過ぎるとき、申し訳なさそうに一言呟く。

「ありがとうね」。

まさかお礼を言われるとは思わず、黙って頭を下げた。

おばあさんの後ろに3人を挟んでバスを降りる。ゆっくりしか進めないおばあさんはまだ降車口にいた。そして僕を見てまた一言。

「ありがとうね」。

さすがにこれには弱ってしまった。僕は二度もお礼を言われるようなことはしていない。単に急いでいなかっただけで、たまたま心にゆとりがあっただけの話。僕だっていつも先を譲ってあげられるとは限らない。

実際、もし帰りではなく、行きのバスならたぶん待てなかったはずだ。その日の行きのバスで僕は猛烈に焦っていた。久しぶりに乗るバスで時間の感覚が鈍っていたのかもしれない。家をギリギリに出てせいで、乗ろうとしていたバスに目前で行かれてしまった。

次のバスが到着するまで10分かかる。朝の10分のロスは大きい。しかも、そんなときに限って打ち合わせの主催は社長。約束の時間には間に合うだろうが、最低でも10分前には到着しておきたい。せっかちな社長のことだ。時間に空きがあれば予定時刻より早く打ち合わせを始めかねない。わかっていたはずなのに。あと数分早く家を出なかったことが悔やまれる。

定刻通り10分後にバスは来てくれたものの、ソワソワして気持ちが落ち着かない。バスが信号で停まるたび、ため息が漏れてしまう。

『焦ってもしょうがない。落ち着け、落ち着け、俺』。

気を紛らそうとニュースを読んでも頭に入ってこない。焦りはそのうち苛立ちへと変わり、罪のない人たちに心の中で八つ当たりを始める。

ゆっくりバスに乗る人を見て『早く、乗れ』。黄色でブレーキを踏む運転手に『いや、今のは行けたでしょ』。小銭の支払いにもたつく人向かって『先に準備ぐらいしとけよ』。

たとえ最低と思われても、これが本音である。『そんなわけで、おばあさん。僕は紳士な男ではないのですよ。お礼を言われるのは嬉しいけど、素直に受け取りにくいです。周りからは良く腹黒いって言われます』。

そう言いたかったけど、「は〜い」という間抜けな返事をして、その場を去った。

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子育て世代と給付金

似たようなことは新幹線の中でもある。新幹線に乗ると3回に1回ぐらいの割合で、前に座る人から「シートを倒していいですか?」と聞かれる。

聞かれたら笑顔で「どうぞ」と答えるが、内心は『別に聞いてくれなくてもいいよ』ぐらいに思っている。必要以上に丁寧な気遣いは日本人ならではだろうか。知らないが、そんな気がする。

もちろん『わざわざ言わなくていい』などと皮肉めいた意味ではない。『気を使ってもらうほどのことではないよ』の意味だ。

僕はシートの後ろに付いている台の上にパソコンを乗せて仕事をするからキーボードを叩く音や振動の方がよほど迷惑になりかねないし、聞いてくる人が倒すシートの角度は決まって浅い。倒すと言ってもたかが知れている。むしろ、腹が立つくらい深く倒すヤツは何も言ってこない。

先程のおばあさんの感謝の言葉と同じように、シートを倒すときの一声も、僕にとっては嬉しいけど、素直に受け取りにくかったりする。

話は変わるが、最近話題の18歳以下の子どもを対象にした10万円相当の給付金。すったもんだしながらも、5万円の現金とさらに5万円分のクーポンが支給される方向だ。

子どもが2人いて、支給される側の僕にとってはありがたい話だ。けれども、そこら中で指摘がされているように、政策としては意義が曖昧で、本当に必要であるかは疑わしい。

給付金の是非について、ここで持論を展開するつもりはないけど、もらえる側としてはなんだかモヤモヤしてしていることを伝えておきたい。

要するに嬉しいけど、素直には受け取りにくいのだ。

誤解のないように言っておくと、もらえるものはもらう。しかし、もらえる側の気持ちとしては、もっと素直に受け取れるような政策を検討してほしい。もらえない側からすれば贅沢な願いかもしれないが、そう思わずにはいられないのである。きっと、多くの子育て世代がそう思っているはずだ。

 

おわり