僕は大好きなこたつをやめた
いよいよ涼しくなってきた。急に寒くなると冬の準備でバタバタするから大変だ。慌てて冬服を衣装ケースから引っ張りだし、リビングのラグを夏物から冬物に変えた。終わらない夏のせいで秋の始まりはいつも曖昧だ。秋は突然やってきて、すぐにまた冬にバトンを渡してしまう。
冬を前に思うのは我が家からこたつが消えたことだ。数年前までは当たり前に使っていたこたつ。マイホームの購入を機にこたつをやめることにした。
こたつの厄介なあるある
何もこたつが要らなくなったわけではなかった。冷えた体をつま先から暖めるのに、こたつよりも最適な暖房器具を僕は知らない。むしろ、こたつが大好きである。
しかし、こたつは快適な反面、厄介な性格を持ち合わせている。そのことに気付いてから、こたつを手放すべきではないかと思うようになった。
せっかくだから、こたつをやめた理由をココに書き出してみようと思う。自分の判断が正しかったどうかの再確認にもなる。例えば、あるあるネタ風に振り返ってみるのも悪くないかも知れない。きっと、僕以外にも同じような人がいるはずだ。
入ると動けなくなる
あと5分だけ。気付けば『あと5分』を何度も繰り返している。当たり前だけど、こたつは部屋の中を暖めてくれるものではない。こたつの中だけが暖められる。中に入っていれば暖かいけど、出た瞬間に寒い。こたつから出るには強い意志が必要なわけだ。
いつの間にか寝ている
「ヤバ、いま何時⁉︎」夜中に慌てて目を覚ます。人間の体は温まると眠くなるようにできているらしい。こたつに入っているといつの間にか、うたた寝をしてしまうものである。
足の踏み場がなくなる
「せまっ、歩きづらいわ!」家族で入るサイズになると、こたつもそれなりの大きさが必要になる。テーブルはもちろん、布団も大きい。狭い部屋ではこたつがスペースを占領しがちだ。
掃除が面倒になる
『メンドイ…』こたつは掃除機をかけるたびに布団を捲り上げる必要がある。この一手間が意外に面倒くさい。しかも、布団の上には食べカスや髪の毛が溜まりやすく、布団もときどきは干さなくてはならない。
探しものが増える
「これ、〇〇じゃん」。こたつの上で何かしているうちに、小物が布団の中に紛れ込んでしまうことがある。こたつの中から探し物が出てきた経験は一度や二度じゃないはずだ。
消し忘れが心配になる
「どうしよう、ちゃんと切ったかな〜」。こたつの電源はコンセントからではなく、スイッチで切ることが多い。慌てて家を出た日はスイッチを切った記憶が飛んでしまうこともある。万が一火事になったら大変と不安になってしまうものだ。
臭いがこもりやすい
「なんだこの臭い」。友人宅での出来事。こたつに入ろうと布団を持ち上げるたびに何かが臭う。しかもバッドスメル。臭いの原因はどうやら友人の足だったようだ。こたつにはこんなリスクがあるのだと知った。
*
こんな感じでこたつは便利であるが、マイナスな面があるのは確かだ。そこで僕は新居に移るタイミングで、愛すべきこたつを手放すことに決めた。
部屋を暖めるエアコンを選ぶ
ちなみにこたつの代わりはエアコンで補うことにした。僕の住む温暖な地域ではエアコンだけでも十分足りる。
石油ヒーターに比べれば暖まるまでに時間はかかるものの、エアコンなら燃料の補充は要らないし、オイルの臭いも気にならない。空気が乾燥するのは苦手でも、こたつと違って部屋全体を暖めてくれるのだ。
暖房を考えてエアコンを選ぶときの注意
ただし、エアコンで注意したいのは、エアコンは一般的に暖房能力が冷房能力に比べて弱い。購入するときに冷房の畳数だけで選んでしまうと、暖房時に「効きが悪い」ということになりかねない。以前、ダイキンの営業マンがそう教えてくれた。
ついでに言うと、エアコンには外気温が7℃(室温20℃)のときの能力を示す「暖房能力」と外気温2℃のときを示す「低温時暖房能力」がある。寒冷地の場合は低温時暖房能力をよく見て購入すべきだそうだ。
営業マンに勧められるまま、リビング用にダイキンのエアコンを買った。この前の機種にあたる「うるさら7(セブン)」を使っている。
まぁ、エアコンだって、クリーニングとかマイナスの面は挙げようと思えばいくつもある。だけど、家の中でのパフォーマンスを高めるために、こたつはない方が良いと判断した。特に子どもはこたつに入るとなかなか出てこなくなるしね。老後になったら、またのんびりとこたつに入りたいと思っている。
おわり
親ガチャを真剣に語るのはナンセンスだ
もう秋だというのに炎天下で行われた娘の運動会。照りつける日差しでうなじのあたりが焼けるように痛い。だけど、僕の心は満たされていた。娘は足が速い。徒競走を一位でぶっちぎり、代表リレーでも快走を見せてくれた。暑いのを我慢してカメラを回した甲斐がある。
僕に似て足が遅い息子と、妻に似て足が速い娘。運動能力においては娘の方が息子よりも引きが強かったということだろう。
熱血漢な父親
代表リレーを撮影している間、隣に座っていた父兄が終始大声を上げ応援していた。少しうるさいぐらいだったが、自分の子ども以外もちゃんと応援する姿勢には感心した。バトンを落としてしまった子、途中で転んでしまった子、大差がついていても一生懸命走る子。「大丈夫、大丈夫!まだ、追いつけるよ。ガンバレ!」僕にはできない芸当だ。多少暑苦しくても、こんな熱血漢を父親に持つ子どもは幸せなんじゃないだろうか。深くは考えずにそう思った。
娘が通う幼稚園は教育に力を入れていることで知られている。わざわざ遠くから通ってくる園児は少なくない。だからなのか、富裕層の家庭も多く、園に行くと高級車をよく見かける。残念ながら僕は違うのだけど。父親のイベント参加率もたぶん平均よりは高い。家庭が裕福であることと、教育熱心なことが、子どもの幸せに直結するほど単純でないことは分かっている。しかし、客観的に見て、この幼稚園に通う子どもたちはたぶん恵まれている。彼ら彼女らは引きが強かったということだろうか。
裸足の女の子
運動会を終え、家に帰ると時計の針は12時を回っていた。急いで着替えだけ済ませ、向かったのは自宅から少し離れたファミレス。娘と一緒にドリンクバーの列に並んでいると、体操服を着た女の子が僕らの前にフラフラ割り込んできた。運動会の帰りのようである。制止して本来の順番に並ばせたかったが、そうしようと思ってやめた。注意するのが可哀想だったからではなく、女の子が幼すぎて注意を理解できないと感じたからだ。
問題は順番を守れない女の子にあるのではない。順番を守らせるはずの親が側にいないことにある。しかも、足下を見ると何故か裸足で靴を履いていない。席から脱いだまま歩いてきたのだろう。順番を譲ると女の子はたどたどしくコップをドリンクバーの機械にセットした。しかし、タッチパネルの操作が分からない。3歳ぐらいだろうから、わからなくて当然だ。欲しい飲み物を聞いて代わりに操作をしてあげる。目的の飲み物を手に入れると、女の子は黙って席へと戻っていった。
実はその女の子の親がどこにいるかは察しがついていた。ドリンクバーへ向かう途中、ソファ席の上に足を乗っけた若い父親が視界に入り、行儀の悪さが気になったが目線を合わさずにやり過ごした。席に戻りながら確認すると予想はやはり的中した。
別に、子どもを少し放置したぐらいでその親を非難しようとは思わない。僕がしたように他の大人が手伝ってあげれば済む話だ。案外、何でもかんでも親が手を出すよりは自立心が育まれるかもしれない。その女の子を可哀想と見るのは行き過ぎた考えだろう。ただ、さっきまで見ていた幼稚園の親たちと比較すると、ギャップがあるのは明らかだった。良い悪いは別として、子どもたちはどちらのタイプの親を引きたいと望むものなのだろうか。
「親ガチャ」の記事に抱く違和感
少し前に「親ガチャ」という言葉が流行った。"自分の親は選べない"、"どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまう"という意味で使われる言葉らしい。プロアマ問わず、多くの人が記事を書いていて、そのいくつかを読んだ。
自分の境遇を親のせいにするのはけしからんとか、いやいやそうじゃなくて子どものときの家庭環境で人生は決まってしまうのだとか。
記事を書く人によって主張は違うし、どちらの主張が正しいかで議論になることもある。けれども、それは前提条件にしている子どもの境遇レベルが違うだけで、話が噛み合っていない。金持ちの家に生まれたかったと贅沢を嘆く子どもには「甘えんな!」で十分でも、ネグレクトなどの虐待を受けてきた子どもに「親のせいにするな!」などと言えるわけがないだろう。結局は、運(ガチャ)を前向きに受け入れようとか、同情するほど運に恵まれなかった人たちには手を差し伸べようとか、当たり前の結論しか出てこない気がする。
そもそも僕は「親ガチャ」という言葉を使って人生観や社会問題を真面目に語ろうとする記事に違和感を抱いてしまう。
なぜなら、この言葉は所詮、流行りの「ガチャ」になぞらえただけのスラングでしかない。単に例えが上手かっただけの話だ。言い出したのは本当に困っている子どもたちでもなければ、その困っている子どもたちを真剣に救いたいと考えている大人たちでもない。この言葉を使って真面目な話をするのは、どこかズレてしまっていないだろうか。
世間への問題提起に繋がるという意見もあるかもしれない。しかし、こんな軽い言葉に昔から根付く深い問題を変えるほどの力があるとは、僕には到底思えない。第三者的な立場の大人が自分の考えを主張したいだけで、問題を解決してくれるような期待感が記事の中に感じられないのである。
「親ガチャ」について触れた記事を否定したいのではない。この言葉について真面目に議論する価値があるのかと問いたい。小ネタ程度に会話に出すぐらいでちょうどいいだろう。あくまで僕個人の見解だ。こんな風に書いている僕が一番ズレているのかもしれない。それならそれで構わない。でも、「親ガチャ」の言葉を聞くと、そんな風に思ってしまうのである。
おわり
P.S 僕の読者さんの中にも「親ガチャ」について記事を書いた方が何人かいらっしゃっいましたが、それらの記事は僕が疑問を投げ掛けたいような記事ではなく、決してそれらを否定するつもりは毛頭ないことを念のため宣言しておきます。悪しからず。
インドカレーのお店がくれる見えないポイント
10月1日、緊急事態宣言が解除された。色々と思うところはある。ひとつには外食や観光などの産業が少しづつ活気を取り戻していって欲しいと思う。もちろん「油断するな!」と言いたい人の気持ちはわかる。わかるよ、ちゃんとわかっています。でも、自分の考えの中にゼロコロナはなく、あるのはウィズコロナだけ。別に新しく首相になった人の言うことを真に受けているわけじゃないけど、それが妥当だと思う。まぁ、御託はいいとしてね。少しでも早いこと、みんなが以前のように気兼ねく食事や旅行を楽しめるようになって欲しいと願わずにはいられないんだ。
インドカレーのお店
先日、家族でインドカレーのお店にランチを食べに行った。よく行くチェーン店ではあったけど、いつも行く店舗とは違う。なので、普段がどのぐらい賑わっているお店なのかはわならない。でも、土曜のランチタイムに入っていたお客は我が家を含めてたったの2組。混み過ぎているよりはいいけど、あまりに閑散とし過ぎているのも落ち着かない。やっぱり適度に賑わってくれている方が客としても居心地が良い。
それに、僕には悪い癖がある。客入りの少ない店を見ると「大丈夫かなぁ?(お店は)ちゃんとやっていけているのだろうか?」といらんことを気にし始める。失礼な話だが、あまり繁盛していなさそうな近所のたこ焼き屋でも、店の前を通るたび、外から客の入りを窺いたくなる。店側からすれば超余計なお世話だろう。
その日はたまたま客が少なかっただけかもしれないし、コロナのせいで客が減っているわけではないかもしれない。ただ、混んでいないことが謎に感じるくらい僕はそのお店が気に入っている。
定番のランチメニューは36種のスパイスが入ったカレーと大きくてもっちもちのナン。カレーはチキン、ポーク、ほうれん草、エビ、羊と種類は豊富にあって、辛さも自分好みに選べる。
僕はシンプルにチキンカレーの中辛を頼む。通い始めた頃はカレーとナンのセットを注文していたんだけど、ナンがあまりに大きいので、家族みんながそれぞれにナンを頼むとさすがにナンが多い。
そこで僕はカレーライスを頼み、ナンの量を調整するようになった。妻がオプションでナンをチーズナンに変え、息子がそのままプレーンのナンを頼む。我が家のお決まりのパターンだ。頼んだものを分け合えるのが家族で食べる醍醐味である。
ランチのセットにはカレーとナンに加えて、サラダとスープ、それにドリンクが付いてくる。家族分で3000円も掛からずにお腹いっぱい食べられる。
市販のルーを買って試しに自宅でもチキンバターカレーを作ってみたけど、店の味にはぜんぜん遠い。スパイシーなカレーと絶品のナンを安く食べれるのがこのお店の魅力だ。ただ、実はこの店にはメニュー以外にも別の魅力がある。
見えないポイント
先ほど紹介したパターンでのメニューは3つ。ライスとチーズナンとプレーンのナン。対して我が家は4人家族。1人分足りない。娘の分だ。
娘は4歳になる。1人前のメニューをちゃんと頼んだ方が良い年頃だろう。でも、娘の分まで注文してしまうと明らかに食べられる量を超えてしまう。
9歳の息子は既に成人女性分ぐらいの量を食べられるが、その息子ですら、お子様セットを食べ切るのは簡単ではない。もう一つお子様セットが増えたら、我が家には完全な無理ゲーである。そういうわけで少々忍びないが、3人分のメニューでお店には勘弁してもらう。
しかし、そんなマイナス1の注文しかしない我が家にもお店の人は優しい。店はインド人のオーナーが経営している。ウェイターもコックも、働いている人はみんな(たぶん)インド人。どの店舗に行っても日本人は見かけたことがない。会話するときの雰囲気や表情はやや硬いけど、彼らの心はサービス精神で溢れている。
料理がテーブルに運ばれてくると、セットのスープが一つ多い。人数分の4つが用意されている。ハーフサイズのコップには水ではなく、カルピスが入っていて、黙ったまま娘の前に置かれた。
こちらとしてはマイナス1の注文で気が引けているのに、彼らはそんなことを気にも留めず、サービスを加えてくれる。初めてのことではなかった。毎回ではないが、過去に他の店舗でも同じようにサービスを受けたことがある。今回はガラガラの店内だけに、さらに申し訳なく感じた。なんならその分のお金を払ってもいい。でも、それはできない。断った方が良いだろうか。それもまた、せっかくのおもてなしに水を差すことになる。だから、せめて次もこのお店に来ようと思う。単純だけど、こういうサービスに日本人は弱い。
お客にリピートとしてもらうための支払った金額に合わせてポイントを貰えるサービスは多い。もちろんこのサービスは有効だけど、僕にとっては彼らがくれる見えないポイントの方が遥かに嬉しい。
お客が感動するサービスはマニュアルを超えたところにある。日本のサービスの質は総じて高い。マニュアルだけでも十分すぎるほどのサービスだ。それでもお客は何度も店に足を運ぶうちにマニュアルのサービスには慣れてしまう。当たり前に求めてしまうので、少しずつ感動は薄れていく。だから、イレギュラーなサービスである方が新鮮で感動を覚えやすいのだ。
少しずつ元に戻していく
コロナ禍になってから行くのをやめてしまった店は多い。気兼ねなく仲間と食事を楽しめるにはまだ少し時間がかかるだろう。でも、ワクチンの接種率が高まってきた今、これからは少しづつ元に戻していきたい。もちろん様子は見ながらであるし、感染対策は守った上で。トライ&エラーの繰り返しになるだろうけど、それは仕方ないんじゃないだろうか。
いまだに協力金の支給遅れもあると聞く。手遅れるになる前に好きなお店に行けるようになりたい。特に、インドカレーのお店のような見えないポイントをくれるようなお店にはこれからもあり続けて欲しい。そのためには少しずつ元に戻していけるように努力する。そんなことを思った。
おわり
はてなブロガーには珍しい小説の記事「福井歳春の杞憂」を読んで
今回はブログ仲間のジロー( )さんが書いた短編小説について書評のようなものを書いてみたいと思います。ジローさんが僕を仲間と認めてくれているかはわかりませんが、厚かましくも認めてもらえている前提で記事を書かせていただきます。
福井歳春の杞憂
小説のタイトルは『福井歳春の杞憂』です。話は全6話で、後書きも含めると記事は7本。1話目のリンクを下に貼ります。
まず、小説の紹介をはじめる前に二つ謝らせてください。
一つ目は、この記事の"はてなブロガーには珍しい小説の記事"というタイトルですが、これはあくまで僕の経験則によるものです。実際のところ、はてなブログに小説が珍しいかどうかは調べていないのでわかりません。何となくです。少なくとも僕がたまに使うnoteに比べれば珍しい印象を持っています。万が一、はてなブログで小説が珍しくなかった場合の予防線を張るために先回りで謝っておきます。
二つ目は、小説を紹介するにあたってジローさん本人の了承を得ていないことです。マナーとして先に一言断りを入れておくべきかと思いましたが、やっぱりやめました。だって、IDコールにはサプライズがあった方が楽しくないですか。僕は自分がされたときに、その方がドキドキして嬉しいです。
それに「紹介します!」って期待を持たせてしまうと、大した記事が書けなかったときに困ります。だって、投稿しにくくなるじゃないですか。これもある意味で予防線を張っているのです。
というわけで、ジローさん、ゴメンなさい。勝手に紹介させていただきます。
あらすじ
主人公の福井歳春はベテランのタクシードライバー。物語は福井が、彼の同僚が起こした交通事故の再調査を警察に掛け合うところから始まります。同僚の名は西園寺公也。無事故無違反を長年続け、個人タクシーへと独立を考えていた矢先、勤務中に事故を起こしてしまいます。しかも相手は一命を取り留めたものの、生死の境を彷徨うこととなる大きな事故でした。結果、西園寺はその事故がきっかけで会社を去ることになります。
事故の原因が西園寺にあったとはどうしても思えない福井は警察に何度も掛け合います。しかし、その甲斐もなく、事故が再調査されることはありませんでした。そして、10年の月日が流れます。
ある日、妻から入った事故を知らせる一本の電話。無念に終わった西園寺の事故を思い出し、動揺する福井。しかし、その電話から物語は思わぬ方向へと突き進んでいきます。
感想
何と言っても、物語を通して見えてくる福井歳春の人柄に惹かれました。ご本人の後書きにもありましたが、自分がまだ経験していない、上の世代の人の考え方や感情をうまく表現するのは難しかったかと思います。
偶然にも同じタイミングで読んだよう( )さんの記事にも書いてありましたが、"小説の最大の魅力は自由度だ"という通り、小説は読者の想像を前提に書かれています。
読者によって、福井歳春という人物の見え方も違うのだと思いますが、僕は不器用ながらも人情に厚い昭和の男を想像しました。
交通事故はどんな人にとっても身近な問題です。僕のような地方に暮らしている人間にとって、車は必需品であり、交通事故とは常に隣り合わせにいます。
そして、事故は自分だけでなく、大事な家族が巻き込まれる可能性もあります。自動車が世の中に普及して長い年月が経ちますが、高齢者によるブレーキの踏み間違え事故や乱暴な煽り運転など、自動車の事故に関わるニュースは近年になって連日報道されるようになりました。
一方で、車の自動運転技術は進み、運転が不要になる時代は目前まで迫ってきています。そんなことも考えながら読んでみると、より趣深いお話かと思います。
✳︎
なお、短い紹介で申し訳ないですが、短編小説ゆえに長々書くとネタバレのリスクがあります。その点はご理解ください。
しかし、短編小説は隙間時間にサラサラ読めてしまうのが魅力です。「よし、読むぞっ!」って気合いを入れなくても短い時間で読めるからいいんですよね。
紹介の経緯
さて、最後に小説を紹介しようと思った経緯を書かせてください。
ハッキリ言っておくと、互助会みたいな助け合いの精神は毛頭ありません。単に小説を書けるジローさんが羨ましく、むしろ嫉妬する気持ちがあったからです。
今までに何度も書いてきた通り、僕は文章を書くことが得意ではありません。謙遜とかではなく、本当に苦手なのです。一本の記事を書き終えるまでに何度も書き直します。
ブログを始めた1年ほど前まではプライベートで文章を書きたいなんて1ミリも思いませんでした。今までに読んできた本だって数えるほどしかありません。
そんな自分がブログをきっかけに日々、文を書くようになり、他の人が書いたブログを当たり前に読むようになりました。
新しく身につけた習慣の中で驚いたのは、素人なのに上手な文章を書く人がたくさんいたことです。昔からブログに触れてきた人からすれば当たり前のことかもしれませんが、僕にとってはとても新鮮であり、驚きでした。
特に上手なエッセイや小説が書ける人には憧れがありますし、同じくらい嫉妬心を抱きます。でも、嫉妬したところで、憧れの文章が書けるようにはなりません。
少なくとも今の僕に小説は絶対書けないです。テクニック的にもメンタル的にもまったく無理です。才能も努力も足りません。しかし、書評なら今の自分でも書ける気がしました。
この記事はジローさんのために書いているものではなく、自分の嫉妬心を紛らわすために書いたものなのです。レビューを書くことで、少しでも自分が書けるようになった気分に浸りたいのです。
一年ほどブログを続けてきましたが、今でも度々やめようと思うときがあります。明日突然やめても不思議はありません。それでも結局続けているのは書くことの楽しさを知ってしまったからです。
ブログをやめていく人はたくさんいます。続ける人よりやめる人の方がずっと多いです。やめる理由も人それぞれ違います。
ただ言えることは長く続けている人ほど、書くことが純粋に好きである気がします。お金を稼ぎたいとか、有名になりたいとか、書くこと以外に目的を求めると、それがダメだとわかった瞬間に書くことをやめたくなります。
ブログを長く続けるコツは色々言われますが、究極的には書くことを好きになることじゃないでしょうか。最近はそう思います。
すいません。だいぶ話が逸れてしまいましたね。ジローさん、やっぱり大した記事は書けませんでした。なので、断りもなく紹介したことをお許しください。でも、作品は本当に素敵でした。ナイストライです!
貴重なはてなブロガーの書いた貴重な小説です。この記事を通して少しでも多くの人が読んでくれることを期待します。
それでは、『福井歳春の杞憂』をお楽しみください。
おわり
明智光秀の生存説がデタラメらしくてモヤッとした
昨日のことです。先日見た某バラエティ番組がYahooニュースの記事でバッサリ斬られていました。
番組の内容は、かの有名な明智光秀が『本能寺の変』のあとも別の人物となり生きていたする光秀・生存説の謎に迫るというものでした。
僕は知らなかったのですが、光秀の生存説は今までもテレビで何度か取り上げられることがあったようです。明智光秀を主人公にしたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回でも光秀の生存説を含ませる演出があったらしく、ネット界隈では少し前にも話題になっていたみたいですね。番組が放送される前から既に盛り上がる下地ができていたわけです。
まぁ、歴史物に限らず、どんなジャンルのドラマでも、死んだはずの人物が生きている可能性を匂わされると視聴者はグッと心を掴まれます。特に続編をやるかやらないか決まってないときにエンディングでやられるのはちょっとズルいなぁと思ってしまいます。
明智光秀は天下人である織田信長に謀反を起こした武将です。主君を裏切ることから悪いイメージを持たれやすいですが、日本人ならみんなが知っている歴史上の有名人です。
『本能寺の変』のあと間も無くして命を落としたはずの光秀が本当は長く生きながらえていたとなれば、当然みんな興味をかきたてられますよね。某番組では不可解な痕跡と称して、いくつかの物証を紹介しながら光秀・生存説を唱えていました。
正しい史実とロマンの虚構
で、僕は上述の記事を読んで何を思えばいいんですかね?やっぱり「けしからん!」ってなればいいのでしょうか。識者でもない僕としては、(本当に番組の話がデタラメなのか判断ができないので)自ら怒りをぶつけるつもりはないです。ただ、今回の話は別としてもデタラメが行き過ぎるのには歯止めを掛けなくてはならないですが、その点で歴史は難しいと感じています。
僕らが学んできた歴史は多くの学者さんたちが研究を長年積み重ねてきた成果であり、由緒ある史料に裏付けされた客観的な事実です。
しかし、何百年前の話である以上、99.9%までは正しいと言えても、100%真実だと言い切ることはできません。例え突飛な話であっても、絶対的に否定はできないのです。
現代だって偽造された公的文書があるぐらいじゃないですか(たぶんですけど)。公的な文書ではないにしろ、世の中にはフェイクニュースが溢れています。
Dr.STONE よろしく、万が一にも文明が突然滅びてしまうようなことがあったときに、間違った情報から真実とは異なる歴史が遥か遠い未来に正しい歴史として認識されるかもしれません。
もちろん、そこまで言い出すと歴史なんて学べなくなるかもしれませんが、故に退屈な真実より、ロマンを感じる虚構の方が好まれやすいのではないかと思います。
歴史物バラエティと子ども
ちょっと話は逸れましたが、僕のような大人はまだいいんです。
最初から話半分で聞いていましたし、言い方悪いですけど、そんなもんだろうぐらいに思っていました。
トラウマとまでは言いませんが、子どもの頃に徳川埋蔵金の番組を観ては、いつも期待させるくせに結局、何も出てこないというのを繰り返し味わってきました。NHKはともかく、民放のバラエティ感満載の番組では話が面白く脚色されることぐらいわかっています。大人ですから。
加えて、某番組は他の番組の人気企画をコピペしたような企画が多く、同じようなミステリー系バラエティと比べてもレベルが数段落ちる印象を持っていました。(でも、嫌いじゃないですよ)
息子のメモ
なので、僕はいいんですが、問題は息子です。僕と違い、息子は某番組が好きです。特にミステリーの回は大好きでして、話が始まるとなぜか話のあらすじを一部始終メモします。最終的にはそのメモを日記帳に写し、担任の先生から感想のコメントをもらうという、謎の遊びを楽しんでいます。
僕は今でこそブログで文章を書きますが、元々は書くのが苦手で、子どもの頃は書くことが大嫌いでした。だからなぜ、自分の子どもがそんな行動を取るようになったのか不思議でなりません。
しかし、話のメモを取り、頭の中で整理しながら文字にする行為は勉強でも仕事でも役に立ちます。いつかブログを書きたいと思ったときも、書くのが下手な親と違って記事をスラスラ書けるかもしれません。
よって、先生には少し迷惑かもしれませんが、放置しています。大事なのは話の内容ではなく、メモを取るいう行為にあります。息子に「この前の話はデタラメかもしれない」言ったところで、無駄にショックを与えるだけかもしれません。かと言って、わかっているのに黙っているのも悪い気がします。
いや〜どうする方がいいんでしょうか。モヤモヤします。マジで何だコレ。ミステリーな番組でした。
おわり
朝活と早起きは三文の徳とは限らない
眠れない。寝たいのに目は冴えている。瞼を閉じる。でも、夢の中には潜っていけない。
明日は早い。なぜ眠れない。考えて憂鬱になる。どうすれば良い?焦る。イライラする。
仕方がない。あれこれ考えて気を紛らそう。明日のこと。週末のこと。心配なこと。楽しいこと。頭の中がグルグルする。少しも眠れる気配はない。
いっそのこと起きてみようか?ダメだ。起きたら負けな気がする。布団をかぶりなおす。
じゃあ、スマホでも見る?バカか!それこそ眠れなくなる。今日日、子どもでも知っている。でも、見る。誘惑に負ける。
興味のないニュースに目を通す。ツイッターのタイムラインを眺める。どっちもあまり集中できない。目だけは覚めた。
観念して瞼をもう一度閉じる。目を開けたいのをひたすらに耐える。ようやく眠れそうになる。なってくる。なった。なったのに、トイレに行きたい…。
どうしよう?我慢する?でも、ムリ。だって、落ち着かない。トイレに行く。また目が覚める。また瞼を閉じる。
いつの間にか眠りに落ちていた。でも、すぐに目覚ましに起こされる。わかっていた。やっぱり眠い。
今週のお題「眠れないときにすること」
眠れないと思ったときにはもはや遅い。早く寝たいともがいたところで、かえって目は冴える。
溺れそうなときはもがくほど溺れる。力を抜き、仰向けになる方が溺れない。わかっている。わかっているのにもがいてしまうところが何なとなく似ている。
"眠れないときにすること"ではない。"眠れないときにしてしまうこと"が正しい。
しかし、以前と比べれば眠れない日もずいぶん少なくなった。理由はたぶん朝活を始めたからだ。
子どもを寝かし付けることから朝活を始めた
かれこれ2年近く、ほぼ毎日夜10時に寝て、朝5時前には起きる生活を過ごしている。たまに寝る時間が遅くなることはあっても、なるべく次の日はいつもと同じ時間に起き、いつもと同じ時間に寝る。そうすることでリズムを崩さない。
朝活を始めたのは子どもと一緒に寝ると決めたからだ。以前は子どもを寝かしつけてから風呂に入り、その後に自分のやりたいことをやっていた。すると、深夜までダラダラしてしまい、朝起きるのが辛い。
子どもを寝かしつけているうちに、気付いたら朝だったという経験を何度かした。朝は忙しくなるが、思いのほか頭がスッキリしていて気持ちが良い。それなら、思い切って自分の自由な時間を夜から朝に変えることにした。
平日の朝は主にブログ、休日の朝はランニングに時間を充てる。朝は夜みたいにダラダラ過ごしてしまうことがない。結果、睡眠時間が削られることはなくなる。健康的な生活が手に入った。
早起きは誰にでもお勧めではなかった
とは言え、この朝活を誰かにお勧めしようとまでは思わない。「早起きは三文の徳」ということわざがあるように早起きは良いことで、特に子どもの頃は早起きするべきだと教わってきた。でも、実はこれは必ずしも正しいとは限らないらしい。
人を朝型と夜型で分けることがある。どちらのタイプになるかは年齢と遺伝で決まるそうだ。
人は年を取ると早寝早起きの傾向になる。実際に20歳前後をピークに夜型から朝型に徐々に変わっていくそうだ。自分の感覚からもこれは正しいと言える。
問題は夜型の人が無理に朝型の生活を送ろうとするとかえってパフォーマンスが落ちる。つまり、夜型の若者は基本的に朝活には向かない。海外では学校の始業時間を1時間遅らせることで子どもの成績が上がった実例もあるようだ。そう考えると学生の朝練などは体のメカニズム的には本来望ましくないのだろう。
そして、年齢以上に遺伝の影響を受けるらしい。遺伝というのは生まれつきということであり、個人差を意味する。遺伝の部分を努力で変えるのは難しい。生まれつき夜型の人は無理して朝活をすべきではないということになる。
ちなみに約3割の人は朝型と夜型のどちらかに強い傾向があるようだ。もし朝活に憧れて生活習慣を夜型から朝型に変えてみたけど、いまいち向かないと感じている人がいたら、無理して朝活は続けない方が良いかもしれない。
今週のお題「眠れないときにすること」(リターン)
こんな感じで睡眠の話は奥が深い。本や記事を読むことで自分にとっては意外な事実を知る可能性もある。
眠れないときはどうしたら良いか迷うけど、逆手に取るつもりで、睡眠について学んでみたらどうだろうか。案外有意義な時間を過ごせるかもしれない。
おわり
正義のブタと正論を振りかざす男
日本人なら好きなアニメヒーローの一人や二人いても不思議はない。昭和の頃から世代ごとに愛されてきたヒーローがいる。
ただし、ヒーローと一言でいっても性格や精神性は様々だ。昭和の孫悟空と令和の竈門炭治郎ではタイプが違うし、平成の碇シンジのように特殊なタイプもいる。
憎めないブタ
今まで誰にも話しことはないが、僕は『クレヨンしんちゃん』に登場するぶりぶりざえもんが好きだ。子どもと一緒にアニメを見ているうちに、彼の魅力にハマってしまった。
知らない人のために説明しておくと、ぶりぶりざえもんは主人公の野原しんのすけが考案したキャラクターである。設定は『救いのヒーロー』。見た目は紫色のタイツを穿いたブタだ。
実はぶりぶりざえもんはおよそヒーローには相応しくない。性格は極めて自分本意で金にがめつい。"常に強い者の味方"が彼のポリシーであり、ピンチになれば平然と仲間を裏切る。最低のブタ野郎だ。
それでも彼は類い稀な強運の持ち主で、意図せず敵を倒し、ヒーローさながらトラブルや事件を解決してしまう。どんなに憎らしくても、結果にはコミットするブタなのだ。
憎らしい男
先日、社内で営業を集めた会議が開かれた。システムの入れ替えに伴い本社の人間から大事なお願いがあるとのことで管理職は参加が義務付けられた。オンラインではあったが、かなりの人数が集められた。
それにも関わらず、事前の説明や資料は不十分で、とにかく段取りが悪い。始まってみれば議論はたびたび本題から脱線し、ついには一部の営業からヤジまで飛ぶ始末。
「ムリでーす。そんな暇じゃありませーん」ガキみたいなセリフがスピーカーから聴こえてくる。みっともない。地方の中小企業など所詮はこのレベルかと思いながら聞いていたが、大企業でもたぶん同じなようなことは起こり得るのだろう。政治家を見てればわかる。肩書きが立派でも、心が大人とは限らない。
とは言え、原因をつくったのは本社側の人間だ。そもそも主催した2人の男は営業からの評判がすこぶる悪い。やることは三流のくせに態度だけ一流な男と、やる気がなさ過ぎて人に仕事を押し付けることばかり考えている男。2人からのお願いでなければ、会議があれほどまでに紛糾することはなかったはずである。
そして、事件は翌日に起きた。会議中にヤジを飛ばしていた男の一人が、本社の人間に対して痛烈な批判メールを送りつけたのである。メールは会議の参加者全員にも送られ、事態は場外乱闘戦へともつれ込んだ。
『どこを見て仕事をしている。客の方を見て仕事をしろ!』正義のヒーロー気取った男が皆の意見を代弁してやると言わんばかりに正論を振りかざす。
だが、僕は彼が決してヒーローなんかではないことを知っていた。彼はいわゆる劇場型営業により、これまでも幾度となく社内の人間に同じ行為を繰り返してきた。つまり常習犯である。自分のミスは棚に上げて、他人のミスは容赦なく非難する。単に人前でマウントを取りたいだけの憎らしい男なのだ。
正論とは
彼の芝居じみた行動に周りの人間はうんざりしていたが、なぜか本人だけはそれに気付かない。今回は特に多くの人数を巻き込んでいだけに、なおさら気合が入っているようにも思えた。しかし、この戦いは案外早くケリが付くことになる。
本社側の人間はすぐさま手持ちの中で一番強いカードを切った。劇場型男がメールを送ると、返してきたのは送った相手ではなく、相手の上司だった。劇場型男よりも上位の人間である。メールには丁寧な言葉が並べられていたが、明らかに彼の言動を戒めるような含みを持たせていた。
さて、劇場型男はどうする?人前で啖呵を切ったのだ。どうせなら一回ぐらい抵抗してみせてほしい。が、あまりにアッサリと振り上げた拳を下げてみせた。潔く「承知しました」と、吐いた唾を飲み込んだのである。
そう、それはまるで「私は常に強い味方だ」と言わんばかりに。プライドもへったくれもあったもんじゃない。所詮、自分を良く見せるために正論を振りかざす人間はその程度だということだ。正論とは人を傷つけるために使うものではない。人を守るために使うものである。
もし彼がぶりぶりざえもんなら類い稀な強運でこの状況を打破していたであろう。だが、もちろん彼はぶりぶりざえもんではない。せめてアニメのような笑い話になれば良いが、笑いは笑いでも起きたのは苦笑いだけだった。
今週のお題「肉(にく)」。にくらしい男より、にくめないブタが僕は好きだ。
おわり