授業参観と子どもの個性(後編)
今回は前回に続き、小学3年の息子の授業参観に行ったときの話です。
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僕を含め後半組みの親たちが教室に入り終えるとすぐに授業は再開された。参観する科目は外国語。内容は普通の英語の授業だったが、科目名は英語ではなく、あくまで"外国語"らしい。
授業で出されたお題は友達同士でお互いに何色が好きかを英語で質問し合い、どの色が人気なのかアンケートをノートに取ること。「時間内にできるだけたくさんの友達と質問し合いましょう」先生は言った。
開始の合図とともに子どもたちは一斉に席を立ち、質問する相手を探し始める。まさに友達とのコミュニケーション力が試されるところ。さてさて。それがすこぶる苦手な息子は、2年前より成長した姿を僕に見せてくれるこだろうか。少しの不安と大きな期待を抱えつつ、彼の様子を観察した。
しかし…。
おいおい…。
マジか…。
僕の目に映ったのは相変わらず友達に上手く話しかけることができずにいる息子の姿。堅い表情を浮かべながら教室の中をウロウロしている。対して、他の子は一番声を掛けやすい仲の良い子から質問を始めた様子だった。おそらく彼には"一番"の相手がいないのだろう。
声を掛けようと頑張っているのはすごくわかった。恥ずかしいのか、相手を立ち止まらせるだけの大きな声が出す勇気がない。ターゲットの子は息子に気付かず前を通り過ぎるか、別の子に取られていった。
なんて歯痒い光景なのだろう。話し掛けようとして失敗したのを何もなかったように誤魔化す素振りが痛い。まるで、モテないヤツの下手なナンパのワンシーンを見ているようだった。若かりし頃の自分を思い出させてくれる。
授業参観というシチュエーションに緊張していたのかもしれない。僕にカッコいいところを見せようと意識し過ぎてしまったのかもしれない。息子の性格上、それはあり得る。ただ、友達に話しかけるのに何をそんなに躊躇う必要があるのだろうか。
昔からそうだった。幼稚園で親同士が仲の良い友達と遊んでいても、いつも気後れしてしまうというか、同じペースで遊べない。他の子が意地悪をしているわけではないのだが、声を掛けられても息子の方がちゃんと反応をしないので遊びにならない。そのうち子どもたちの群から離れ、親たちの中にに混じっていることが多かった。
「今だ行け」「そう、そこだ。話しかけろ」
授業参観中はひたすら心の中で応援していた気がする。一応何人かには話しかけることができた。終盤になると他の子も声を掛ける子が少なくなってきたのか、息子に話しかけてくれる子も増えていった。
結果的に息子が質問した相手は8人。先生が、みんなが何人とアンケートできたかを挙手で確認したところ、8人は平均より少し多い数だった。
ちなみにアンケートの相手を探している最中、例の生意気なガキが息子とすれ違うときに「じゃまだどけ!」的な感じで体を押していた。イラッとしたが、まぁ許してやろう。
なお、僕が前回からその生意気なガキについて悪く書いているのには言い分がある。授業参観のときに息子がなぜか朝付けていたはずのマスクではなく、違うマスクを着けていた。帰ってから理由を尋ねると、給食で外したマスクをそのガキがわざと踏みつけたらしい。嗚呼、ムカつく。代わりに親のマスクにワサビでも塗りこんでやりたい。
話が逸れた。そんなシーンはあったものの、不器用なりに頑張っていた息子の姿を見れたのは良かった。最初は成長していないようにも見えたが、アンケートの人数を客観的に見ても十分な結果だろう。そのうちきっと、上手にコミュニケーションは取れるようになる。
20分という時間はやはり短く、あっという間に過ぎた。終業の気をつけ、礼。ありがとうございました。
*
ちなみに悲観的な感じにも書いてしまったが、実はそれほど悲観的にはなっていない。最近になってわかったことだが、息子は自己肯定感が高い。これは親として、上手くやったと思っている。一生懸命褒めながら育ててきた甲斐があった。
彼は友達に話しかけるのは苦手だが、大勢の人前で話すのは好きだ。クラス代表の挨拶を喜んで受けたり、1学期の始めには学級委員にも立候補した。人望がないせいで学級委員には多数決で落選したらしいが、また今度も立候補すると話していた。意外にメンタルが強い。僕なら一度落選したら気持ちが萎える。
それに相手が大人になると急にコミュニケーションが得意になる。学校でも塾でも先生にはガンガン話し掛けるし、時に生意気なことを言って注意までされている。さらには歳が少し離れれば平気らしく、妹や妹の友達の面倒を見たりするのもめちゃくちゃ得意だ。
また、流行りに流されるのが好きはでない。友達との会話に困るだろうと、親が『鬼滅の刃』や『ニンテンドースイッチ』を薦めてみても興味がないと答えた。他人と違うことをむしろ望んでいるようにも思える。
つまり、彼自身は友達とのコミュニケーションが苦手なことを親が心配するほど気にはしていないだろう。むしろ、苦手とも捉えていないのかもしれない。乱暴な子と上手く距離が取れるようになれさえすれば、他は問題ないはずである。
人の性格は面白い。僕と息子は性格が比較的似ているところも多いが、やはりまったく同じではない。僕は友達が多い方ではないものの、友達とのコミュニケーションに悩むことはなかった。息子は僕の子供の頃より勉強ができるし、ルックス的にも女子からモテるはず(親バカ)。なのに、なせ友達と自然に遊べないのか、いまいち理解ができなかった。でも、これが個性なのだろう。みんな得意不得意がある。人を性格で陰キャと陽キャに分けたりすることがあるけど、案外どちらの性格も持ち合わせてい人は多い気がする。色がはっきりと分かれるのではなく、マーブル模様のようにできているのだろう。
とにかく願わくは、このまま自己肯定感を高く保ち続けて欲しい。これから先、まわりと上手くコミュニケーションが取れない時期があっても自分を責め過ぎるようなことは絶対にしないでほしい。自分を真に認められる人間は他人も認めることができる。(逆に劣等感のある自己肯定感の低い人間は他人を認められない)そのうちまた自然と仲間はできるはずだ。
*
たかが授業参観。されど授業参観。子育てについてと改めて考えさせられる良い機会になった。父親として、男して、これからも息子の成長を楽しみにしている。
終わり
授業参観と子どもの個性(前編)
小学3年の息子の授業参観に行ってきた。小学校の授業参観に行くのは今回で2回目。コロナ禍での授業参観は参観に来る親を2つのグループに分けて行われた。参観できる時間は約20分。わずか20分であれば"休まないと職場を離れられない私より在宅で仕事ができるあなたが行くべき"と、忙しくパートと家事をこなす妻から指名を受けた。しかも僕に相談するよりも前に息子に話をしていたらしい。「久しぶりに父が来てくれるって喜んでたよ」先に外堀を埋められていることを理解した。まぁ、いい。子どものイベントに参加することは嫌いじゃないし、2年前の1回目よりは気が楽だ。
車では行けないので、ママチャリで行くことにした。久しぶりに乗る自転車は満更でもない。学校の近くまでくると集団で歩く親の列が見えてきた。これ見よがしに颯爽と追い越してみせる。予想通り母親が多かったが別に気にはしない。
学校に着くと下駄箱のところで教師が仁王立ちして何かを叫んでいる。少し高圧的な雰囲気が鼻につく。近くに寄ると「ソーシャルディスタンスを取ってください」と繰り返し唱えていることがわかった。
ソーシャルディスタンス、ソーシャルディスタンスって、長くて噛みそうになっているし、意味は知ってるけど、「社会的距離って何だよっ」てツッコみたくなる。そこはもう「かたまって歩かないでください」とか、「しゃべらず進んでください」とかで良いんじゃねぇ、と思わずにはいられない。杓子定規なところが何とも学校らくしはあるのだが。
教室に着くとすぐに息子を見つけた。息子もこちらに気付いた様子だった。とりあえず、教室の後ろの空いたスペースに自分の居場所を陣取る。早速、教壇の方に目をやると先生の真ん前に座るひときわ態度のでかい生徒が目に付いた。
良く言えばヤンチャで元気がありそな子。悪く言えば生意気そうなクソガキ。できることなら広い心の大人でいたいが、そうもいかない。自分の子に危害を加える輩は子どもとは言え容赦しない。
僕が授業参観に参加した1回目は息子が小学1年生のときのこと。友達とコミュニケーションを取るのが下手な息子が学校で苦労しているのは明らかだった。
小学校に入る直前に家を引っ越しをしたたため、息子は周りにまったく友達がいない環境で小学校生活をスタートさせた。元々ハンディのある子に更にハンディを負わせるようなもの。親としては後ろめたかった。
幼稚園のころは教育に力を入れた私立幼稚園に通わせていたせいか、乱暴な子は比較的少なかった。小学校はごく普通の公立の学校で、まわりの学校と比べても評判は悪い。一転して乱暴な子の割合が高くなった。
私立と公立を偏見で分けるつもりはないし、乱暴な子を悪と決めつけるつもりはない。ただ、授業中に教室の中をフラフラ自由に動きまわるような生徒を躾けることもできない現代の学校には幻滅を通り越して同情したくもなる。担任の先生は小一の生徒に早くも匙を投げていたことにすぐ気付いた。
運動会などのイベントに行くと、案の定、息子は一人でポツンと座っていた。先入観で見ないよう注意したが、どうしても寂しい少年にしか見えない。まわりの子たちがキャッキャッじゃれているそばで堅い表情のまま、遠くの方を一点見つめている。どんな気持ちでいたのだろう。
いじめと呼ぶほどひどい仕打ちを受けていたわけではない。みんなから寄ってたかって何かされていたわけではない。特定の子からクーピーをバキバキに折られたり、体操着のズボンにじゃりを入れられたり。それだけのこと。責任は持つから、やられたらやり返せと言ったが、それは間違っていると怒られた。
やられるのは息子だけではなかったそうだが、息子はやられる頻度が多いということらしい。ただ、一度だけ眉間の部分を教材で傷をつけられて帰ってきたことがあった。息子から事情を聴くと明らかにわざとやられた傷だった。連絡帳のようなもので担任に事実を伝えると、翌日すぐに相手の子の母親から電話がかかってきた。「謝りに家に行っていいですか?」と言われたので、そこまでする必要はないと答えた。すると声でホッとしたのがわかった。所詮は社交辞令の発言だろうし、わざわざ来てもらうのも面倒だ。たぶん息子もそんなことは望まない。しかし、相手は油断したのか「わざとじゃないけど偶然当たってしまったみたいで…」と言い放ち、こっちは一気に怒りモードになる。
「どう考えて偶然じゃないことぐらいわかるだろ。てめぇのバカ息子に確認してみろ」と喉元まで出かかったが、ギリギリのところで我慢した。妻に電話がかかってきたことと、謝罪にくるのを断ったことを伝えるとそれで良いと言われた。次の日に息子がその子からもらった謝罪文の書いた手紙を見せてもらった。特に何とも思わなかった。
学校に通うときは妻か僕が見送ることにしている。当時の足取りはいつも重そうだった。実際、その頃の息子はとても元気がなかった。たまにしか会わない実家の親も、そんな息子の様子を察して心配そうにしていた。めちゃくちゃしんどかっただろう。でも、学校に行きたくないとだけは言わなかった。
そこで学校での様子を自分の目で確かめるため、そしてこちらの心配を気にも止めてくれない担任に無言の圧をかけるため、父親である自分が授業参観に行くことにした。それが1回目の授業参観である。ただの親バカである。
あれから約2年。以前よりはだいぶ学校生活に慣れたらしく、家で学校の話を多くするようになった。ドッチボールをして遊んだことや、給食を友達より早く食べ終えた話とか。大した話ではないが、それが良い。妻が学童保育に迎えにいくと、友達と一緒に将棋などをして遊んでいることも増えたようだ。
さて、2回目の授業参観。1年生の時とどれぐらい変わっただろうか。
後編に続けます。
一気読みした浦沢直樹作品『MONSTER』と『20世紀少年』
今週のお題「一気読みした漫画」。新しいお題に切り替わってしまった後ですが、失礼をば。本当は3日ほど前にサラサラっと書き上げてしまおうと思ったんですよ。面白い漫画ならたくさん読んできたはず。でも、案外思い付かなくて。
独身の頃は漫画喫茶によく行きました。一気読みは何度もしていたんです。それなのにすぐ思い付てくれないのは、満喫では漫然と一気読みしていたのに過ぎないからでしょうか。面白くてガーッと読み終えてしまうときの一気読みと、満喫でする一気読みとでは、同じ一気読みでも意味合いが違うからかもしれません。今回のお題の答えとして望ましいのはきっと面白くてガーッと読み終える方の一気読みなので、それが思い付かないのなら一旦は諦めることにしました。
で、今書いているというのは時間が経って、ようやく思い付いたからです。でも、思い付いたのは一つの漫画ではなく、一人の漫画家でした。名前は浦沢直樹さんです。
浦沢直樹
漫画界の巨匠をいまさら紹介するようなことはしません。誰しも作品の名前ぐらいは聞いたことがあると思います。
- YAWARA!(1986年 - 1993年)
- MASTERキートン(1988年 - 1994年/※原作:勝鹿北星)
- Happy!(1993年 - 1999年)
- MONSTER(1994年 - 2001年)
- 20世紀少年(1999年 - 2006年)
- 21世紀少年(2007年)
- PLUTO(2003年 - 2009年)
- BILLY BAT(2008年 - 2016年)
- MASTERキートン Reマスター(2012年 - 2014年)
- 夢印-MUJIRUSHI-(2017年 - 2018年)
- 連続漫画小説 あさドラ!(2018年 - 連載中)
僕が浦沢作品をはじめて見たのは『YAWARA!』でした。実は漫画をちゃんと読んだことはないのですが、アニメが放映されていた当時はそりゃあ凄い人気でしたから、ストーリーを知らなくても登場するキャラクターのことは何となく知っていました。体の小さな猪熊滋悟郎や顔が不細工な花園薫。伊藤富士子の「アン!ドゥ!トロワー!」の掛け声は妙に印象強く残っていますし、永井真理子さんが歌っていた『ミラクル・ガール』も耳に残る名曲でした。
ただ、主人公の猪熊柔だけは絵よりも先に谷亮子(田村亮子)さんの顔をつい思い浮かべてしまいます。今、柔の顔をあらためて見ると可愛いですね。
そして、肝心の一気読みした漫画は2つあります。1つ目は『MONSTER』、2つ目は『20世紀少年』です。
MONSTER
物語は主人公の脳外科医テンマがヨハンという少年を助けることから始まります。実はヨハンは天才的な殺人鬼で、ヨハンの起こした殺人事件によりテンマは殺人事件の容疑者として指名手配されてしまいます。
殺人鬼を蘇らせてしまったことに責任を感じたテンマは、自分が追われる身となりながらも、ヨハンの新たな殺人を食い止めるため、ヨハンを探す旅に出ます。そして、ヨハンに辿り着く過程でヨハンの出世に隠されたとんでもない陰謀を知ることになるのですが…。
『MONSTER』を読んでいるときは、まるでミステリー小説を読んでいるようでした。それまで少年漫画ばかり読んでいたせいか、とても大人な漫画に感じたことを覚えています。ミステリー系の作品って読み進めていくと、どんどん先の展開が気になって、つい読むのが止まらなくなってしまいますよね。ちょっとした恐怖感も手伝って、真相を知るまで落ち着かなくなってしまいます。僕が読んだときは既にコミックが全巻発売された後だったので、2日ぐらいかけて一気読みしてしまいました。
もう少し詳しいあらすじを読みたい人はこちらをどうぞ。
1986年、天才的な技術を持つ日本人脳外科医・Dr.テンマは、西ドイツ(当時)・デュッセルドルフのアイスラー記念病院に勤め、ハイネマン院長の娘エヴァと婚約し、ゆくゆくは外科部長から院長という出世コースを掴みかけていた。医師として漠然としたジレンマを感じつつも、深く考えることなく手術を重ね、研究に打ち込んでいた。
そんなある日、頭部を銃で撃たれた重傷の少年ヨハンが搬送されてくる。Dr.テンマは、院長の命令を無視してオペを執刀し、ヨハンの命を救う。しかしそれが院長の不興を買うなどの結果となり、院内の政治力学によって、テンマの順風な状況は一変し出世コースから転落する。そんな中、院長、外科部長らの殺害事件が発生。同時に、入院中だったヨハンと彼の双子の妹が失踪する。
1995年、外科部長となり職務に励んでいたテンマの前に、美しい青年に成長したヨハンが現れる。テンマの患者ユンケルスを目の前で何の躊躇もなく射殺し、過去の殺人を告白するヨハン。殺人鬼を蘇らせてしまったと自らの責任を感じたテンマは、怪物ヨハンを射殺するために、ヨハンの双子の妹アンナに再会することを企てる。殺人犯の濡れ衣を着せられ、キレ者のルンゲ警部に目をつけられたテンマは、ドイツ国内を逃亡しながらヨハンを追跡する。
20世紀少年
『MONSTER』の次に読んだ作品です。同じサスペンスものですが、SFの要素を含んでいます。
主人公はケンヂという名の青年。昔はロック歌手を目指していましたが、突如失踪した姉の娘の面倒を見ながら、実家のコンビニを切り盛りしていました。しかし、身のまわりで不可解な事件が起こり始めると、事件には幼い頃の自分が関係していることに気付きます。事件を解明するために過去の記憶を少しずつ紐解いていくのですが、事件の裏側には謎の巨大な集団が存在しているのでした。そして、20世紀最後の大晦日。ケンヂは彼の幼馴染みたちと共にその謎の集団との戦いに挑むのですが…。
『20世紀少年』は読んでいて『MONSTER』以上に物語に吸い込まれていきました。『20世紀少年』の魅力の1つは、物語の時代がケンヂが育った昭和の世界に何度も行き来するところです。ケンヂは僕より10年以上歳が上の設定で、同じ昭和でも育った環境は大きく違いますが、それでもノスタルジックについ浸ってしまうのが気持ちいいいんですよね。
『20世紀少年』の詳しいあらすじはこちらをどうぞ。
高度成長による「夢と希望」に満ちあふれていた時代から、一転して経済は停滞しオカルトブームが起き、世界滅亡の空気まで漂いはじめた、1970年前後。
そんな時代の中で、少年たちは、地球滅亡をもくろむ悪の組織や、東京を破壊し尽くす巨大ロボットに蹂躙され、混沌とし、滅亡に向かっていく未来の世界を空想した。そして、それらに立ち向かい地球を救うのは、勧善懲悪の正義のヒーローとその仲間たちだ。下らないようなストーリーを描いたスケッチブックを、少年たちは“よげんの書”と名付ける。しかし大人になるにつれ、そんな空想の記憶は薄れていく。
1997年、主人公のケンヂは、突然失踪した姉の娘のカンナを養い、コンビニを営む平凡な日々を送っていたが、お得意先の一家の失踪や幼なじみの死をきっかけに、その薄れかけていた記憶を次第に呼び覚まされていく。そして世界各地の異変が、幼い頃空想した“よげんの書”通りに起こっていることに気づく。一連のできごとの陰に見え隠れする謎の人物“ともだち”との出会いによって、全ての歯車は回り出す。
物語は、“ともだち”による20世紀末にかけての暗躍と、それに立ち向かう大人になったケンヂ達幼なじみを中心とした第1部、ケンヂが行方不明となり、“ともだち”が世界の救世主として称えられるようになった2015年の世界で密かに反逆を試みるカンナを主人公とした第2部、人類が滅亡し“ともだち”が独裁政治を行う世界に突如現れたケンヂを描く第3部、“ともだち”亡き後に残された最後の陰謀に立ち向かい、幼少時との決着を付けるべく奔走するかつての仲間たちを描く最終部の4つに大きく分かれる。
余談
偉そうに批評的なことは書きたくないのですが、 『20世紀少年』の面白さは20世紀末の出来事を描いた第1部がピークで、第2部以降は少し間延びしてしまった印象を受けました。僕の理解力や想像力が足りないだけなのかもしれませんが、物語のエンディングもどこか釈然としませんでした。
当たり前の話ですが、長い物語の作品を描くことは難しいですね。どこに面白さのピークを持っていけるが重要だと思います。今回紹介した2つの漫画で言えば、個人的にバランスが良いと思うのは『MONSTER』の方になります。
ただ、繰り返しますが、 『20世紀少年』の第1部の面白さはハンパなくて、そこには子どもの頃に信じていた世紀末の予言や、自分がいつかヒーローになって世界を救ってみたいとう少年なら誰もが一度は夢見る勝手な妄想があったからだと思います。まだ読んだことがない人は浦沢直樹ワールドにぜひ触れてみてください。
余談ですが、今年3月に斉藤和義さんがリリース新曲「Boy」のMV。浦沢直樹さんがアニメーションを描いていました!!
おわり
ワクチン接種のデマとファクトチェック
(7月2日 症状に変化があったので更新します)
突然の事でした。ずいぶん先になるであろうと思っていた新型コロナのワクチン接種。職場接種というかたちでずいぶんと早く自分にも回ってきました。
職場接種の話が舞い込んできたのはほんのつい先日のことです。希望すれば18歳上の家族も同じように打ってもらえると聞き、喜んだのも束の間。モデルナ製ワクチンの供給が追いつかないことを理由に申請の受け付けを一時中断する報道が流れました。既に申請されたものについても精査するそうです。結局、本当に接種できるのかわからなくなってしまった矢先、不意に実施確定の連絡を受けました。
ワクチン接種の是非
ワクチンの接種を受けるか否かについては人それぞれ考え方が違います。どちらか一方が正解で、もう一方が不正解ではありません。誰かを諭したいわけではなく、あくまで個人的な見解を述べます。
僕はワクチン接種を前向きに受けたいと思いました。ワクチンの副作用が怖くなくはありません。未知なるものに対する漠然とした恐怖はあります。
それでも副作用のリスクよりコロナに罹患したときの病状や後遺症のリスクの方が高いと考えました。それなりに自粛した生活を送っているので、自分が罹患してしまうとは正直思えないものの、可能性までを否定はできません。二つのリスクを天秤にかけて合理的に判断した結果です。
また、デルタ株のような変異種は感染力が強く、家庭内感染のリスクが高まっていますので、接種できない子どもたちを守るためにも打つべきだという意見を聞いてその通りだと思いました。
何より世の中が、コロナが流行る前の状態に早く戻って欲しいと願っています。ワクチンを接種したからと言って、完璧な防御を手に入れるわけではありません。が、ワクチンの接種なくして大きな進歩は望めません。完全には戻すことができなくても、元の世界に近づけることはできるはずです。
職場接種
職場接種は平等性に欠けるという批判が出ていることは知っています。早く打ちたくても打てない人には少し申し訳なく思いますが、今は接種者を増やすことがとにかく重要です。甘んじて受けるのではなく、素直な感謝の気持ちで受けることにしました。
いざ打ち終わってみてですが、とりあえず今のところはなんとも問題ありません。打ったところが少し痛いいるぐらいで、幸いにも他は普段となんら変わりありません。ただ、若い人の方がやはり反応が強く出る傾向にあるようです。腫れがひどくなるようであれば湿布を患部に貼るといいと聞いて準備していましたが、湿布の出番はありませんでした。
投稿のタイミングで特別な違和感はなかったのですが、打ってから20時間ぐらい経過したところで痛みを強く感じるようになりました。肩を上げるのがしんどく、指先に僅かな痺れも感じます。やはり筋肉痛と同じで若い人ほど症状が早く出るのは間違いないようです。インフルエンザのワクチンよりも打った後の痛みは強いので、利き腕ではない方に打つようにした方が良いですね。湿布もおすすめします。
ワクチンに関するデマ
そう言えば、少し前に河野大臣がワクチンに関するデマを否定したブログが話題になったのをご存知でしょうか。色んなメディアで紹介されていましたが、僕は古田大輔さんのツイートで知りました。
今さらだけどワクチンに限らず、得たい情報の種類によって見るサイトを選んでいかなくてはならないなぁ。 https://t.co/LYoEVPNSyo
— aki800 (@hajikoko1) June 25, 2021
面白いと言うのは不謹慎ですが、読んでいて「へぇ〜」となることが書かれています。一部引用させてもらいますので、ワクチンに心配がある人は読んでもらうと参考になるはずです。
「ワクチン接種された実験用のネズミが2年で全て死んだ」
実験用のネズミの寿命がそもそも2年程度ですから、ワクチンを接種した人間が100年で全て死んだといっているのに等しいことになります。その後、「ワクチン接種された実験用のネコが全て死亡した」というデマに替わってきていますが、ヒトに関する研究の前段階としての動物実験でネコは一般的に使われません。
「ワクチン接種により不妊が起きる」
コロナワクチンに限らず、どんなワクチンに関しても流されるデマの一つです。これまでのワクチンで、不妊が起きたことはありません。
mRNAは半日から数日で分解され、ワクチンにより作られるスパイク蛋白も約2週間以内でほとんどがなくなります。
mRNAワクチンが遺伝子に組み込まれることはありません。
他に次のようなことも書かれていました。
- 中国やロシアがSNSを使ってファイザーやモデルナのワクチンの信頼性を傷つけるような情報発信を行っていること。
- 医師の中にもデマを流す人がいること。
- 日本で流れるデマは海外で発信されてからしばらくして入ってくるものが多いこと。
政治家のブログを初めて興味深く読みました。
ファクトチェック
医学の知識がない僕にはブログの内容が本当に正しいかどうかを判別できません。中には政治家の言うことは信用できんと言う人もいるかと思います。しかし、一国の大臣が発言している情報です。当然、有識者の見解に沿って書かれた内容です。
僕らはいつも100%の正しい情報を待ってばかりはいられません。可能性で判断するかしかないのだと思います。だからこそ、信用できる情報源を確保することは大切です。
出処がわからない噂や匿名の記事を信じるよりは名前を公開している専門家の情報を優先すべきです。専門家がどういう人なのか、肩書きの確認もした方がいいです。コロナやワクチンについては専門家でさえ、確実なことは言えないもしれません。しかし、素人が付け焼き刃で学んだ知識よりも正しい可能性が高いことは明らかです。
最後に余談ですが、発信者の知名度だけで情報を鵜吞みにするのも危険です。
以前、メンタリストのDaiGoさんが発信した情報について医師の方が批判しているツイートを見かけました。
【メンタリストDaiGo氏の健康系デマに注意】
— やさしい皮膚科医 (@S96405539) November 1, 2020
患者さんに聞かれて調べましたが、間違いばかりです😥これで月収9億ですか・・
・論文の要約部分しか読んでおらず間違い多数
・引用元論文自体が不適切な研究・・
・関連領域に無知なので健康を害するデマも
・パクリなのか他のYouTuberの『後追いデマ』も
真偽はわかりませんので、ここに詳細は書きません。でも、正直意外でした。DaiGoさんは名が通った人ですし、メンタリストとしての実力は確かだと思います。僕もDaiGoさんの本は読んだことがあるのであまり疑いたくはないのですが、ただ、これを読んでしまうとどうでしょう。う〜ん、厳しいですね。
もちろん、仮に書かれている批判の内容が事実だとして、DaiGoさんの他のものまでが否定されるものではないことはわきまえておきます。
こんなこともありますので、正しい情報を得ることは意外に簡単なことではないかもしれません。しかし、情報過多な時代だからこそ不可欠なものだと思います。
おわり
京都大作戦前の10-FEET大好き大作戦
京都大作戦。世間一般に『京都大作戦』という言葉がどのくらい浸透しているのかはわからない。どっぷりその言葉に浸かってしまっている僕には、もはや客観的に推し測ることなどできないのだ。
知っている人からすれば当たり前の言葉も、知らない人からすればまったく想像がつかない言葉の可能性はある。
では、京都大作戦とは何か?それは京都で年に一回開催が予定されるイベントのことである。
- 2007年 〜祇園祭とかぶってごめんな祭〜
- 2008年 〜去年は台風でごめんな祭〜
- 2009年 〜暑いのに熱くてごめんな祭〜
- 2010年 〜今年も子供に戻りな祭〜
- 2011年 〜今年も楽しむ覚悟でいらっ祭!〜
- 2012年 〜短冊にこめた願いよ叶いな祭〜
- 2013年 〜天の川今年も宇治で見上げな祭〜
- 2014年 〜束になってかかってきな祭!〜
- 2015年 〜いっ祭 がっ祭 感じな祭!〜
- 2016年 ~吸収年!栄養満点!音のお野祭!~
- 2017年 ~心の10電!10執念!10横無尽にはしゃぎな祭!~
- 2018年 ~去年は雷雨でごめんな祭~
- 2019年 〜倍返しです 喰らいな祭〜
- 2020年 ~それぞれの一番 目指しな祭~(
- 2021年 〜中止はもう勘弁してくだ祭(マジで)〜
ヒントにサブタイトルを並べてみたが、余計にわからなくなりそうなので改めて説明しよう。京都大作戦とは10-FEETが毎年7月に京都の宇治市で開催している野外の音楽フェスのことである。
2021年の今年は7/3(土)、7/4(日)、7/10(土)、7/11(日)の4日間で開催予定。
10-FEETとは
10-FEETはボーカル・ギターのTAKUMA(タクマ)、ベースのNAOKI(ナオキ)、ドラムのKOUICHI(コウイチ)の3人組。
ジャンルはミクスチャー・ロックに分けるのが一番しっくりくるだろうか。ROCKやPUNKをベースにREGGAEやHIP HOPなど幅広いジャンルの音楽を取り入れた楽曲が特徴的だ。
バンドを結成したのは1997年。ベテランと呼べる年齢的にはいいオッちゃんになった。だが、今でも僕のようなおじさんたちだけではなく若者からの支持が厚い。
テレビでの露出が少ないと、どのぐらい人気があるのか測りかねるかもしれないが、何万人も収容できる大きなフェスで何度もトリを務めているモンスターバンドだ。
なお、彼らの魅力と言えば圧倒的なライブパフォーマンスだろう。年間100本近くをこなすという彼らのライブは本物で、時に激しく、時に優しく、見ている者の感情を大きく揺さぶる。顔はイケメンではないが、ライブでの彼らは超男前なのだ。最高にロックで、イカしたバンドなのである。
ライブと京都大作戦
10-FEETのライブの始まりにはいつもドラゴンクエストⅢの『そして伝説へ』が流れる。SE(Sound Effect)と呼ばれるアーティストが登場するときの音楽。言ってみれば出囃子のこと。ドラクエ世代はこの曲を聴くだけでテンションが上がってしまう。
そう言えば、あるとき見ず知らずの女性から肩車を頼まれた。理由は少しでも高い位置でバンド名の入ったタオルを掲げるため。きっと素面のときなら恥ずかしくて断っただろう。肩車はまぁ稀だが、その場で初めて会った人間と肩を組んだりする程度のことはライブ中によくある。非日常的なシュチュエーションを許容できるのもライブの魅力の一つだ。
ただ、勘違いして欲しくないのは、体が触れやすい状況を利用して、わざと女性の体に当たりにいく輩が稀にいる。10-FEET以外のライブでも起きることで、アーティストからもたびたび注意喚起がなされているが、痴漢は完全な犯罪行為。くれぐれも変な気を起こさないようにして頂きたい。
話は逸れたが、そもそもパンクやラウドロックのライブに見られるモッシュなどの密集状態で激しく体をぶつけ合う行為は周りから冷ややかな目線で見られることが多い。実際、たまに上から足が降ってきたり、背中の上に勝手に乗られたり、痛い思いをすることもある。
だから、あのカオスの状態をみんなに理解して欲しいとは思わないが、それでも誰かが転んだ時には体を壁にして助けたり、落とし物があれば大声を出して持ち主を探したりする優しい行為は度々見られる。無我夢中になっていてもも、大抵の人はマナーを忘れずに楽しんでいるのだ。
そして、何と言っても10-FEETのライブにおけるTAKUMAのMCは格別。笑いを交えつつも、純粋で真っ直ぐなメッセージはファンにとって何よりのご褒美である。日々の生活や仕事に疲れているときほど、ライブで過ごす時間は掛け替えのない時間になった。心に溜まったモヤモヤは大量の汗とともに流れ出て、空っぽになった心には感動を詰めて持ち帰る。すると次の日からまた頑張れるのだ。
京都大作戦はそんな10-FEETのライブの中でも特別なライブである。京都大作戦には仲間内のバンドだけでなく、幅広いジャンルから彼らを慕うアーティストたちがたくさん参加している。
ちなみに京都大作戦は開催月が梅雨の時期と思いっきり被るため、天候には何度も苦しんできた。記念すべき1回目は台風の影響で幻となり、2017年は中止にならなかったものの落雷による中断で公演時間が短縮された。翌年の2018年は『去年は雷雨でごめんな祭』というサブタイトルでありながら、2度目の公演中止。昨年の2020年は天気の影響ではないが、コロナの影響により中止を余儀なくされ、2021年は満を持して『中止はもう勘弁してくだ祭(マジで)〜』を予定している。
残念ながら諸事情により僕は京都大作戦に参加ができないのだが、開催を前にせめて勝手に盛り上がと思い、この記事を書くに至った。恐らく、今年は例年以上に参加したくても、参加を断念した人が多いはず。誰に頼まれたわけでもないが、自分が好きな歌詞と動画を並べて、どうせなら同じような人を巻き込んでみたい。
お気に入りの歌詞5選
ミドルテンポの曲を中心にメッセージ性の高い聞かせる歌詞を選んでみた。
風
スマートに負けを認めろとか 求めない事が幸せとか
笑い合いたけりゃ戦うのさ 手を伸ばして願いを描くのさ
最初から真っ白のあの白と 消しゴムの跡だらけの白じゃあ
キタナイ白の方がイカすのさ 嫌なやつの方が純粋さを知っているのさ作詞:TAKUMA
BEAUTIFUL WORLD
Dear friends 笑えてますか? 心の底から笑えてますか?
嬉しそうに笑うあなたが目に浮かぶ散歩道
もしもまた君に会えるのなら朝までずっと笑おう作詞:TAKUMA
CHERRY BLOSSOM
ある時泣き崩れて
またある時笑い壊れて
死ぬまでこのループ
自分で思っている程きっと
あなたは弱くはないから
やまない雨などない作詞:TAKUMA
蜃気楼
あなたが私に(私に)残した言葉は(言葉は)
今も事ある度 僕を歩かせ
孤独も幸せも少し増えた
懐かしさよ 今だけ温もりくれないか作詞:TAKUMA
シガードッグ
ありふれた願いや悲しみは今日も世界に溢れて
君は今ここにいないけれど 僕は少しだけ旅続けてみたんだ
時は止まらなくて 君は優しくて 僕はここにいて
夜風に吹かれてまどろみの中 君の真似をしてみた作詞:TAKUMA
お気に入りの動画5選
公式にアップされているものからライブで盛り上がる曲を中心に選んでみた。
2%
湘南乃風とコラボもした曲。歌詞も歌声もインパクトが強い。
goes on
とにかく飛び跳ねたくなる元気な曲。
VIBES BY VIBES
最近はWANIMAがカバーするのが定着している曲。
1sec
小栗旬主演の『クローズZERO II』の劇中歌に使用された曲。映画のハイライトである鳳仙学園での乱闘シーンで流れるのがめちゃくちゃカッコイイ。
RIVER
ライブの曲で一番盛り上がると言ったらやっぱりRIVER。「枯れるまで流れゆく河」の歌詞をそのときにライブしている地域の川の名前に差し替えるのがいい。KJがアレンジしたバージョンもかっこいい。
最後に
本当はもっとたくさん紹介したいが、キリがないのでこの辺でやめておく。昔リリースされた曲ばかりになってしまったが、最近の曲も名曲は多いので次の機会があれば紹介させて頂こうと思う。
ライブには絶対慣れたくないと、今日のライブは今日だけしかないと、いつもそのときのライブが最後だという気持ちで臨みたいと語るTAKUMA。
今週末はいよいよ京都大作戦。参加する人も、参加できない人も気持ちは一つ。天気が晴れてくれることを祈っている。
おわり
読みたいことを書けばいい、と知った(書評)
なんでブログを書いているのか。ブログを書いて何の得があるのか。ブログを書くことにいちいち理由や価値を求め始めると途端に窮屈になる。
なんでだろう。僕は書いているとすぐにつまずく。
ブログは9割の人が1年以内にやめてしまうという事実
最近はネタを考えるのがツラい。書こうと思ったことがあっても、あのネタはあんまりウケなさそうとか、このタイトルは読んで貰えそうにないとか。そんなことを気にしてやめることが増えた。
お金を貰っているわけではない。誰かに期待されているわけでもない。それなのにお前は何を気にしているって話。はは、バカだ(笑)
ブログの継続が難しいことは知っている。9割の人がブログを始めて1年も持たないことも知っている。そんなことはよく知った上で偉そうに"あなたの投稿を待つ"という記事を書いた。
でも、いざ自分の心が折れそうになると『あぁ、このままフェイドアウトしちゃうかも…』って感じになって、今は内心焦っている。
hajimarikokokara.hatenadiary.com
書くネタに乏しいとか、書くスピードが遅いとか、面白いことを書くセンスがないだとか、そんなことは初めからわかっていた。最初はダメでも、そのうちマシになるだろうって思っていた。けれども想像以上に進歩はなくて…。
いつも何を書くか迷うし、言葉は思い通り文字にできないし、最終的にベタな感想ばかり書いている。ブログのために睡眠時間を削って、反対にぼーっと考えている時間は増えて、子どもからは「またスマホを見てる」と注意される始末。
こんな風に自分を客観視してしまうと『なんで書いているんだろう』と我に返ってしまう。そういえば僕は何のためにブログを始めたのだろうか?
思い出を記録するため?いや違う、お金だ。知識やアイディアを整理するため?いやいや違う、お金だ。ブログで小銭を稼げないかと考えた。
でも、想像以上にそれが難しいことだとわかるとお金から目先を変えた。THE承認欲求。記事を書いた後には「スターをくれや~」、「読者になってくれや~」と心の中でひそかに叫んでいる。マジでダサい。
あ〜、僕はどうすればいいんだ…。どうしたら悩まずに書けるんだろうか。そして、いったい何を書けばいいんだろうか。
書籍「読みたいことを、書けばいい」
さて、ここまで読んだくれたあなたは恐らく僕と同じような悩みを持っている人ではないだろうか。それとも単に心の広い人。あるいはその両方に当てはまる人かもしれない。
いずれにしてもありがとうと感謝を言わせていただく。ただでさえジメジメした季節に愚痴っぽい文章を読んでくれてありがとう。そんなあなたには朗報を伝えたい。実は今回はある本を紹介するの主題である。
僕は「書くのがしんどい」(竹村俊助 著、PHP出版)という本から「どうしたら書けるか」を学んでブログをはじめた。なのに、いつの間にかまた書くのがしんどくなっていた。(とても有用な本なので興味がある方はぜひ読んでいただきたく)
そして、再び迷える子羊状態になった僕が今度は「読みたいことを、書けがばいい」(ダイヤモンド社)という本を手にした。
著者
著者は田中泰延さん。広告会社の電通で24年間コピーライターを勤めた後に2016年からフリーに転向。ご本人曰く、独立ではなく、失業であり、自ら青年失業家と名乗る変わった人だ。
プロフィールについては本にも書いてあったので詳しいことは割愛するが、昼間はトラック運転手をしながら夜間の早稲田大学に通っていたらしい。大学時代の友人には名だたる上場企業の経営者たちがおり、若い頃から凡人ではない人たちに囲まれていたようだ。
内容
内容の紹介についてはダイヤモンド社がホームページに載せている文章を借りるのが一番楽だからわかりやすいと思ったので貼っておく。
「バズる記事」「ターゲットに刺さる文章」。そんな「技術」を学ぼうとする人は、出発点から間違っている。あなたが読みたいことを、あなたに向けて書けばいい。電通コピーライターとして24年、自分が読みたいものを書くために退職して「青年失業家」へ。Web記事500万PV超、Twitterフォロワー46000人超。多くの支持を得るwebライター初の著書。全く新しい文章講義、開講です。
ダイヤモンド社
実用書のようなハウツーを主体とした本ではない。どうしたら上手く書けるか、ではなく、書くということはどういうことであるか、を教えてくれる本である。
もちろん実用的なことがまったく書いていないというわけではない。章の節目には文章術コラムもさり気なく差し込まれている。量ではなく質。短くてもコラムの中身は濃厚だった。
手っ取り早くPV数を伸ばすための書き方が知りたいと思っているような人たちにはあまりおオススメしない。小手先の技術など、本書は真っ向否定しているからだ。やめておいた方がいい。
強いて言えば、書くことの心構えや姿勢を学ぶための本、と言ったところではないだろうか。
感想
勘違いのないように言っておくと、決してお堅い本ではない。むしろその逆で面白い。くれぐれも周りに人がいるところでは読まない方がいい。僕は職場の休憩時間に読んで失敗した。笑いを堪えるのに必死で、かなり顔が歪んでいたはず。
ただ面白い。とにかく書いてあることが圧倒的に面白い。いきなりゴリラの話が出てきて面食らってしまうが、単純に読み物として面白い。たとえ想像していた実用書のようなものとはかけ離れていたとしても、それをどうでも良く思わせるぐらいの魅力がある。
これ以上面白い面白いと書くと嘘っぽく聞こえるだろうし、僕の下手な解説を添えるのもかえってつまらなく思われそうなのでやめておく。
紹介しておいて無責任かもしれないが、ぶっちゃけサンプルを読んでもらえればわかる。ダイヤモンド社のページにも、アマゾンのKindleにも、試し読みができるサンプルがある。それを読んでもらえれば理解は早い。
中にはサンプルのページを探すのが面倒だという人もいるだろう。そんな人のために著者が書いた記事のリンクを親切心で貼らせていただく。実際に記事を読んで「田中泰延」が自分の趣味に合うかどうかをテイスティングしてもらえばいい。
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と、いうわけで書評という高尚な記事が書けない僕はこんなところで限界だ。
ブログを続けていると誰もが一度はモチベーションがぐーんと下がる時期を経験するはず。なぜ自分は書いているのか、自分はいったい何を書けばいいのか。自分に問い質したくなるときは必ずくる。
そんなときにこの本があなたを助けてくれるかもしれない。何を書けばいいのか、教えてくれるはずだ。結果、"書くということは何か"を知って書くことが怖くなるかもしれないが、たぶん大丈夫だ。僕が大丈夫だったから、他の人は大丈夫だろう。
なんだか頭の中でモヤモヤした霧のようなものが晴れてきた。これからは自分が読みたいと思うことを素直に書けばいい。
ちなみにこのブログのタイトル「はじまりここから」はWANIMAの『ここから』という曲からインスピレーションを受けて付けたものだ。
はじめよう ここから
旅立ちにいらない 不安なら
まだまだ これから
笑い飛ばせない日がきたら
ダサいのは今だけだから
作詞 松本健太
何かを始めるのにいつもためらってばかりで思い切りの悪い自分に"ダサいのは最初だけなんだ"と、言い聞かせるようにした意味がある。
せっかく始めたブログ。もう少しがんばりたい。きっとできる。自分が読みたいことを書けばいい、と知ったのだから。
おわり
顔見えマスクの理由
マスクを毎日着用するようになってずいぶん久しい。最近ではゴミを捨てに行くのにもマスクを着用するようになった。やり過ぎな気もしなくはないが、妻が以前に近所で注意を受けてしまった。家からわずか数十メートルしか離れていない場所。マスクを着用せぬまま子どもを見送るために外に出たところ、無言で口のあたりを指差すジェスチャーをされたらしい。だいぶ慣れてきたとは言え、窮屈なルールだ…。
それにしても、こんなに長引くとは思ってもいなかった。職場の誰かがマスクを外したところを見て「この人、こんな顔だっけ?」と、なるときがある。昔から知っている社員ならまだしも、昨年入社したばかりの社員はマスクを着用しているときの顔の記憶しかない。
先日知り合いの業者と交わした会話もそんな感じだった。娘さんが通う高校では好きな人とマスクを外して写真を撮るのが流行りらしい。高校生には3年間しか猶予がない。このままマスク生活が続けば、友達の顔をまともに見る機会がほとんどないまま卒業してしまう可能性があるということだ。自分が直接聞いたわけではないのであくまで憶測に過ぎないが、もし本当にそうだとしたら、それは寂しいすぎるだろう。好きな人とマスク無しで写真を撮ることは確かにプレミアムな経験なのかもしれない。
表情が見えないことの弊害
実は今朝、マスクに関するある記事を読んだ。
ユニ・チャームの開発した「顔がみえマスク」が大好評という記事。パッと見た瞬間、顔の途中に境界線が入るみたいで『これは着けたくない』と思ったが、記事を読んだ後に自分の浅はかさを後悔した。
「顔がみえマスク」はユニ・チャームの社長と聴覚障害を持つ女性社員とのやり取りから生まれた。女性社員はマスクで人の口元や表情が見えなくなると業務に支障をきたすようになっていた。そんな彼女を見かねた母親が作ったのは市販のマスクと透明フィルムで作った口元が見えるマスク。彼女はそのマスクを周りの人に配り、使ってもらうようにしていた。
聴覚障害がある人にとって、マスクが弊害になることをまったく気付けずにいた。それどころか表情が隠せるマスクを便利にすら感じていた。あわよくばコロナが終息した後も都合良くマスクを利用しよう。そんな風にもなんて考えていた。この記事を読んだ後では情けなく思うばかりだ。
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コロナ禍では色々と不便なことがある。窮屈に感じることも多い。けれども自分より苦労している人がいることを想像できるようになりたい。そして、その人たちの声に耳を傾けられるようになりたい。今日は真面目にそんなことを思ってみた。